一言で言うと、「大人は判ってくれない」
「トム・ソーヤーの冒険」
(トウェイン/柴田元幸訳)新潮文庫
前回本作品を取り上げ、
エンターテインメントてんこ盛りの
面白さと書きました。
私は子どもの頃、
そして若い頃に、
そのスリリングな展開に
ハラハラドキドキしたものです。
でも大人になって、
それも50を過ぎて
もう一度読み返したら、
別の印象を持つようになりました。
作品から、
そこはかとなく立ち上ってくる
不思議な「諦め感」と「厭世観」です。
一言で言うと、
「大人はわかってくれない」というような
諦めが感じられるのです。
大人たちの描かれ方が敵味方、
明確に分かれているように思えます。
とくに教会や学校の大人たちの
無機質で管理主義的な
描かれ方を見る限り、
作者・トウェインは
そうした職業の大人たちに
良い印象を持っていなかったのでは
ないでしょうか。
そして一部に見られる
差別的表現も気になります。
当時の感覚では
しかたのないものなのかも知れませんが、
後に書かれる
「ハックルベリイ・フィン」で見られる、
社会問題を指摘するような視点が薄く、
肌の色の違いによる差別を
容認しているようにも感じられます。
終末場面で大金持ちになったハックが、
貴族的な生活様式に窮屈さを感じ、
家出する場面は、
かつては面白いと感じたものです。
でも、育ちの違いは直らない、
という見方にも思えてなりません。
人はそう簡単には変わらないという
あきらめが見え隠れしてしまうのです。
数々のユーモラスな作品を
発表したトウェイン。
彼の本質は
そうした厭世家だったのでしょうか。
いや、そうではないと考えたいのです。
彼はあくまでも
子どもの視点を貫いたのだと。
大人になった自分が
子どもの頃を振り返るのではなく、
子どものときの感性のまま、
子どものときに見えたものを
そのまま書き綴ったのではあるまいかと。
現代日本の中学生にこそ、
この本を読んでほしいと考えます。
彼らの目に見える世界と、
トウェインの目に映った大人社会とを
じっくり比較して読むのも
悪くはないと思うのです。
※「厭世観」が強く感じられるのは、
柴田元幸の訳のせいも
あるかも知れません。
トウェインが使っている過激な表現を
「直訳」に近い形で表しているようです。
大久保康雄訳より
尖った文章が多いように感じました。
※この作品については
まだまだ書きたいことがあります。
何年かあとに再読したときに
また書きたいと思います。
(2019.1.7)