「毛利先生」(芥川龍之介)

教師の存在価値は、大正時代も低かった

「毛利先生」(芥川龍之介)
(「芥川龍之介全集2」)ちくま文庫

中学生時代に臨時講師として
赴任した英語担当の
老教師・毛利先生を、
「自分」を含めた多くの学生が
嘲笑する。
しかし、数年の後、
夜のカフェで熱心に給仕たちに
英語を教える師の姿に遭遇し、
かつての振る舞いを
後悔する「自分」…。

田山花袋の「田舎教師」、
夏目漱石の「吾輩は猫である」等の
明治の文学作品を読む度に感じるのは、
教師という職業の
ステイタスのなさです。
では、大正時代に書かれた作品で、
教師の登場するものは?
ありました。
本作品、
芥川龍之介「毛利先生」(大正7年作)です。
私の好きな作品です。

結論から言いましょう。
大正時代もやはり
教師の価値は低かったのでしょう。
この毛利先生、
ミソクソにけなされています。
それもそのはずです。
臨時採用で、
風采の上がらない老年、
そして授業力に問題があるとすれば、
そうした教師を
リスペクトせよと言っても、
どだい無理な話です。

ここで問題なのは、
芥川自身がこの老教師を
どう見ているかということでしょう。
本作品は、
「批評家・自分」の述懐を、
「冒頭の語り手・自分」が紹介するという、
いわば入れ子構造になっています。
したがって、
「昔、自分たちが、
 先生の誠意を疑って、
 生活のためと嘲ったのも、
 今となっては
 心から赤面のほかはない
 誤謬であった」

という心からの反省も
「批評家・自分」のものであって、
「冒頭の語り手・自分」の
思考ではありません。
そして小説である以上、
「冒頭の語り手・自分」は
「書き手・芥川」と同一ではありません。
ゆえに芥川自身が
作品に登場させた毛利先生に対して
好意的に見ているかどうかは
はなはだ怪しいのです。

対比されるべき作品は
「芋粥」でしょうか。
この作品では、
「芋粥をあきるほど飲んでみ」るのが
主人公「五位」の
「一生を貫いている欲望」です。
その弱者のささやかな願望を、
強者の恣意的行動が
無残に打ち砕く様を描き、
生きることの惨めさを
際立たせています。

この毛利先生は、
「英語を教えると云う事」が
「空気を呼吸すると云う事と共に、
寸刻といえどもやめる事は
できない」人間なのです。
そう考えたとき、
教え続けるという自分の願いに
執着している弱者を、
強者である「批評家・自分」が
最後の場面で賛美することは、
やはり生きることの惨めさを
浮き彫りにしていると考えられます。

五位と老教師に注がれる芥川の視線は、
おそらく同質のものでしょう。
読んで心が晴れわたるような
作品ではありません。
芥川ですから。
でも、だからこそ
心にささくれのように引っかかって
忘れられないのです。

というわけで、
やはり教師の存在価値は、
大正時代でも低かったのでした。

(2019.4.3)

Pete LinforthによるPixabayからの画像

【青空文庫】
「毛利先生」(芥川龍之介)

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