「灰色の記憶」(久坂葉子)

生まれてくる時代が早すぎた

「灰色の記憶」(久坂葉子)
 (「幾度目かの最期」)講談社文芸文庫

一人の娘っ子が、灰色の中に、
ぽっこり浮かんだ。
それは私なのである。
私のバックは灰色なのだ。
バラ色の人生をゆめみながら、
そうしても灰色にしかならないで、
二十歳まで来てしまった。
もうすでに幕はあがっている。…。

文章から滲み出る瑞々しい感性と、
痛々しいまでの心情の吐露。
前回取り上げた
久坂葉子の「幾度目かの最期」です。
それは紛れもない
「遺書」としての作品でした。
でも「遺書」とおぼしき作品は
ほかにもありました。

本作品もまた、
粗筋を紹介するのが困難です。
感受性が極端に鋭いと思われる幼年期。
その時代と決して迎合できるはずのない
文学少女としての女学生時代。
そして教師という権力に対する反抗。
家族の反対を押し切っての就職。
幾度か湧き起こる自殺願望。
ほとんど自伝ではないかと思われる
私小説です。
この、自己の破滅を願うかのような
心情の背景には、
一体何があるのでしょう。

一つは戦争と考えられます。
個人が否定され、
集団に滅私奉公することを
強要される時代でした。
これだけ感覚の鋭敏な少女であれば、
周囲の抑圧に耐えきれないとき、
心が歪になることもありえます。

もう一つは戦後の価値転換でしょうか。
かつての財閥が没落していく中、
無収入となっても、
働くことを「家の恥」と考える、
旧態依然の体質を引きずった家族。
その中で悶々としている作者の、
痛ましいまでの息づかいが
聞こえてくるようです。
そしてその延長線上に、
「幾度目かの最期」が存在するのです。

しかし、背景はどうであれ、
自殺願望はもしかしたら
理由のないものかも知れません。
巻末の久坂部羊氏の解説にもあります。
「死にたいという欲求が先にあって、
 それを正当化するために
 無理やりこしらえたようにしか
 思えないのである。」

思い当たる節があります。
私が接してきた不登校生徒の多くは、
原因があって
学校に行くことができないのではなく、
学校に行きたくない気持ちが
まずあって、その理由探しに
終始しているのです。
その子どもたちもまた、
感性が鋭く、
繊細な心の持ち主たちでした。

久坂葉子はやはり、
生まれてくる時代が
早すぎたのでしょう。
もう10年遅く生まれていれば、
昭和の不良少女の先駆けとして、
のびのびと生を
享受できたのではないかと考えます。
このまま埋もれさせてしまうには、
あまりにも惜しい作家であり、
作品たちです。
大人のみなさんに
ぜひ薦めたいと思います。

(2019.4.12)

ThePixelmanによるPixabayからの画像

【青空文庫】
「灰色の記憶」(久坂葉子)

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