「少女」(眉村卓)

今、SF作品を読むということ

「少女」(眉村卓)
(「閉ざされた時間割」)角川文庫

いつも通り家を出た
中学生の青山伸一郎の前に、
奇妙な衣装を着た女の子が現れ、
どこまでもつきまとう。
その女の子は
教室にも現れたものの、
誰にも彼女の姿は見えず、
声も聞こえない。
伸一郎に一日中
つきまとった女の子は…。

申し訳ありません、
ネタバレになります。
女の子は伸一郎の将来の娘であり、
タイムマシンが発達した未来から、
自分と同年代の頃の父親に
会いに来たのです。
そうした他愛のない
タイムマシンものの
SFジュヴナイル短篇なのです。
現代の大人が楽しめる
代物ではないかもしれませんが、
やはりいろいろなことを
考えさせられます。

時代背景は1960年代です。
そのときの中学生だった
伸一郎が結婚し、生まれた娘が
中学生となるであろう時代は、
西暦2000年前後です。
その時期にはタイムマシンが
できているであろうという
予想のもとに書かれた作品なのです。
残念なことに2020年を迎える現在でも
タイムマシンなど
夢のまた夢なのですが。

高層ビルが建ち並び、
その間をチューブ状のレールが繋ぎ、
弾丸のような乗り物が
高速で移動するような風景が、
近未来SFではよく描かれます。
60年代の高度経済成長期の
右肩上がりの経済成長線を
そのまま延長させた未来なのでしょう。
タイムマシンにしても
「目標同調四次元振動装置」なる
機械にしても、
その経済成長の延長線上に
位置させても、
当時はあまり違和感は
なかったのかもしれません。
それだけ経済成長の右肩上がりは
急勾配だったのです。

私が大学を卒業して
社会に出たときには、
そうした経済成長は
とうに終わっていたものの、
まだバブルの余韻が残っていました。
給料が毎年順調に上がり、
薔薇色の人生が待っている
予感がしたものです。
しかしバブルもはじけ、
庶民の給料も経済の成長も
見られなくなって数年。
私たちが脳裏に描く未来は
決して薔薇色には輝きません。

SFもそうなのかもしれません。
数年前までの経済の下降線、
もしくは近年の極めて緩やかな
成長線の先にある未来社会は、
SF作品になりにくいのでしょう。
現代の作家が、SF作品に
タイムマシンなどを登場させても、
近未来どころか
別宇宙か異次元の物語にしか
ならないような気がします。

このようなSF作品が成立したのは、
とりもなおさずその時代が
「成長」していたからなのです。
今SF作品を読むというのは、
かつて輝いていた過去を味わうことと
同義なのかもしれません。
淋しい限りですが。

(2019.4.27)

Stefan KellerによるPixabayからの画像

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