「f植物園の巣穴」(梨木香歩)

椋の木のほらは「私」の心に開いた空隙

「f植物園の巣穴」(梨木香歩)朝日文庫

f植物園に勤務する「私」は、
歯痛に見舞われ歯医者に向かう。
そこから「私」の身のまわりには
不思議なことが続いて起こる。
やがて「私」は
椋の木のうろの中に落ちたこと、
そしてそこから脱出した
記憶のないことを思い出す…。

犬の姿に変化する歯科医の妻、
勝手に行き先を決める靴、
山羊のミルクを出す洋食屋、
人と話す犬、
河童のようなカエル小僧、…、
次から次へと「異なもの」が登場する、
常識の通用しない世界なのです。
椋の木のうろから
「私」が迷い込んだ異世界。
「アリス・イン・ワンダーランド」と
いったところでしょうか。
しかし趣はまったく異なります。

一つは格調高い日本語で
綴られているという点です。
「目を閉じれば手前に
 秋海棠の群れ咲く露地、
 その先は両側を葉蘭の茂みが
 うっそりと並んでいる夜の小径だ。
 それが僅かに下り坂になっており
 そのまた向こうはまるで
 射干玉
(ぬばたま)の夜の闇の底。
 これはまた何処
(いずこ)の迷路か。」
おそらく時代背景は
昭和初期と推察されます。

そしてもう一つは、この異世界が、
ただの意味不明な世界では
ないという点です。
「私」がそこで出会う「異なもの」はすべて
「私」の内なるもの、
「私」が封印してきたもの、
「私」が気付かないままに
失ってきたもの、
そうした記憶の象徴なのです。
「私」は絡まり合った糸を
丹念に解きほぐすかのように
一つ一つ記憶を甦らせていくのです。

思い出した記憶のいくつかは
辛いものでした。
姉のように慕っていた女中・千代が
姿を消した本当の理由は、
「私」が感じた「罪の意識」ゆえに
心の奥底に
固く封じていたものだったからです。

椋の木のほらは
「私」の心に開いた空隙と考えられます。
その穴に落ちたことは
とりもなおさず
自分と向き合うことにほかなりません。
したがって、「私」が異世界で
出会うものの一つ一つが、
その空隙を埋めるための
パーツとなっているのです。

しかし甦った記憶は同時に、
「失ったもの」との束の間の
邂逅や再生ももたらします。
カエル小僧との出会いは、
生まれてくるはずだった息子との
短い語らいの時間となりました。
そして、数年前に早世した妻は…。
夢から覚めたあとの数頁は
感動に包まれます。

高校生に、そして大人の皆さんに、
女性にも男性にも
お薦めできる梨木香歩の傑作長編です。
草木の萌え出づる季節にご一読を。

(2019.5.27)

ju IrunによるPixabayからの画像

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