「人間失格」(太宰治)

太宰の霊魂と交信するために本作品を読んでいる

「人間失格」(太宰治)新潮文庫

「自分」は道化に徹することにより、
社会との関わりを
かろうじて保って生きてきた。
そしてそれが見破られることを
恐れている。
堀木と出会った「自分」は
酒・煙草・左翼思想を覚え、
それらに浸ることによって
精神の解放を感じる…。

「恥の多い生涯を送って来ました。」
という衝撃的な一文で始まる
「人間失格」。
私はこの作品が嫌いです。

主人公・葉蔵は、何事も
自分で決めることのできないまま
堕ちていきます。
強い腹立たしさを覚えます。
その自堕落な生活の果てに
女性と心中騒ぎを起こします。
あまりにも陰鬱です。
内縁の妻が犯されるのを
傍観するに至っては
不快感を通り越して
吐き気さえもよおします。
最後は精神病院に入院し、
その行方は語られません。
救いもないのです。

なぜこのような作品を読むのか?
もっと優れた文学があるではないか。
心が安らぐ小説があるではないか。
「もう二度と読むまい」。
そう思い続けました。
そう思い続けながらも、
なぜか読んでしまうのです。
惹きつけられるように。
高校生の頃に出会って以来、
もう何度読み返したでしょう。

太宰作品の持つ引力については、
巻末の解説で評論家の奥野健男氏が
明らかにしているとおりだと思います。
「太宰治の文学はどんな小説でも
 君よ、あなたよ、読者よと
 直接作者が呼びかけてくる
 潜在的二人称の文体で
 書かれている。
 この文体に接すると読者は、
 まるで自分ひとりに
 話しかけられているような
 心の秘密を打明けられているような
 気持ちになり、
 太宰に特別の親近感を持つ。」

ただし
この「人間失格」という作品については、
それだけではないと思います。

主人公・葉蔵の思考や言動、
薬物中毒や心中事件などに、
作者自身の半生を
投影させた作品構成は、
単なるフィクションとは言い切れない
真実味があります。
そして三回にわたって雑誌掲載された、
その最終回直前の玉川入水に鑑みるに、
本作品が太宰の遺書としての
性格を持つことは疑いのないことです。

描かれている情景の一つ一つは
前述したように決して
心地好いものではありません。
むしろ醜悪です。
ヴィジョンとして
思い浮かべたくないものばかりです。

しかし、それでいて本作品からは、
孤独と狂気に苛まれ続けた
太宰の魂魄の姿形が、
病んで自身をズタズタに傷つけた
太宰の心意が、
血を流してのたうち回っている
太宰の精神が、
手に取るように感じ取れるのです。

あたかも死んだ太宰の霊魂が
本作品にそのまま宿ったかのようです。
現代の私たちは、
その太宰の霊魂と交信するために
本作品を読むのかも知れません。

※まもなく映画
 「人間失格 太宰治と3人の女たち」が
 公開されます。
 私は多分観に行かないと思います。

(2019.9.7)

Gerd AltmannによるPixabayからの画像

【青空文庫】
「人間失格」(太宰治)

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