「満願」(太宰治)

健全な魂の宿っていた時期の太宰を味わってみませんか

「満願」(太宰治)
(「走れメロス」)新潮文庫

仲良くなった医者の家で
新聞を読んでいた「私」は、
玄関先で医者がある若い女性に
「奥さま、もう少しのご辛棒ですよ」と
大声で叱咤しているのを聞いた。
その女性の夫は
肺を患っているのだという。
それからしばらくして…。

文庫本にして
たった3ページの掌編です。
しかも具体的な事情を
伏せて書かれてあるので、
注意して読まないと
何のことやらわからないまま
読み飛ばしてしまうことになります。

医者は患者の妻の若い女性に
何を「辛抱」しろと言っているのか。
察するに夫婦生活なのでしょう。
おそらく結婚したての
若い女性と考えられます。
子どもを産むことが
女性の役割として
疑いをもたれなかった時代。
それができないことの不憫さを
「私」は感じたのでしょう。

医者は何を心配したのか。
肺病の夫の体力消耗だけでなく、
そうした夫を抱えて
妻が出産することのリスクも
考えたのではないでしょうか。

それからしばらくして…。
「私」は「美しいものを見た」。
それは嬉しそうに歩く女性の姿です。
ゆるしが出たという
医者の奥さんの言葉を聞き、
全てを察する「私」。
女性が「白いパラソルを
くるくるっとまわした」という描写に、
女性の晴れ晴れとした気持ちや
それを見た「私」の清々しい思いが
凝縮されています。

本作品は太宰の
精神的にも人間関係的にも
安定した時期の傑作です。
昭和13年、
薬物パビナール中毒から脱し、
井伏鱒二の尽力で
石原美知子と婚約したあとの
作品なのです。
太宰はさらに「女生徒」「富嶽百景」
「駆け込み訴へ」「走れメロス」
傑作を書き続けます。

さて昭和13年といえば、戦争の影が
覆い始めた時期でもあります。
4月に国家総動員法公布、
7月には東京オリンピック(1940年)の
開催権を返上等、
暗いニュースが飛び交い始めました。
石川淳が反戦の意を盛り込んだ
「マルスの歌」を書き、
発禁処分となるなど、
文壇でも戦争へと突き進む世相を
批判する作品が
書かれた年でもあります。

本作品にはそうしたものは
一切見えません。
夫婦生活という
極めて個人的な営みに
焦点を当てた作品であり、
世の中の流れとは
歩みを異にしています。

太宰の束の間の安定期に生まれた
傑作掌編です。
「人間失格」する以前の、
健全な魂の宿っていた時期の
太宰を味わってみませんか。

(2019.9.7)

【青空文庫】
「満願」(太宰治)

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