記憶の中の本の世界で余生を送るのでしょう
「紙の世界」
(ピランデッロ/関口英子訳)
(「月を見つけたチャウラ」)
光文社古典新訳文庫
ある程度あった財産の全てを
本につぎ込んだ老紳士・バリッチの
目がついに見えなくなった。
医者から本を読むことを
止められていたにもかかわらず、
彼は読書こそ我が人生とばかりに
読み続けたからだった。
視力を失った彼は…。
身につまされながら
読んでしまいました。
本好きの男の物語です。
ただし、バリッチの本好きの度合いは
常人とはかけ離れています。
彼は本を読めるようになってから
ずっと読書ひとすじ。
財産があり、
家政婦が身のまわりの世話を
全てしてくれているのです。
まさに生きること=読むことなのです。
ここまでくると
狂気としかいいようがありません。
そんな彼は
視力を失ったあとどうしたか?
人を雇って本を読んでもらううのです。
当然の行動のように思えますが
やはり狂気です。なぜなら読むのは
「朗読」ではなく「黙読」だからです。
「ここで、わたしの代わりに
誰かが本を読んでいることに、
わたしは悦びを感じるのだ。
ここはわたしの世界なのだ。
誰かがこの中で
生きているということを
知るだけで、心が慰められる。
そうすれば、
わたしは自分の記憶のなかで
その先を理解できる。」
雇われた娘は当然こんな心境を
理解できるはずがありません。
ある本を読まされたとき、
彼女はつい本の描写の
間違いを指摘してしまい、
バリッチは激怒します。
「何者も、それに触れてはならない。
そこに描写されているものには、
いっさい手を出すことはできない。
なにもかもそのとおりなのだから。
それが彼の世界なのだ。
紙の世界。彼の世界のすべて。」
考えてみると、彼は仮想現実の中で
生活しているようにも思えます。
ネット世界だけでなく、
本もまた虚構の世界ですから、
のめり込みすぎることは
仮想現実に取り込まれることに
なりかねません。
しかしさらに考えてみると、
彼はすでに現実世界で
生活しているとは言い難いのです。
彼は「紙の世界」という
彼だけの世界の中で生き、
その世界は完結しているのです。
おそらくはその後も、
読み手を失った彼の書庫の中で、
彼は本の手ざわりをもとに、
記憶の中の本の世界で
余生を送るのでしょう。
それは哀れに見えるとともに
幸せにも思えます。
どちらなのか私には分かりません。
これまで何度か取り上げた
ノーベル賞作家・ピランデッロの世界。
不思議な魅力に溢れています。
※前回の「シジスモンの遺産」同様、
本への偏愛を描いた物語です。
2つ合わせていかがでしょうか。
(2019.9.20)