不完全で未成熟な少年の心を疑似体験する
「少年の日の思い出」
(ヘッセ/高橋健二訳)
(「教科書名短篇少年時代」)中公文庫
昨日取り上げた本作品。
ノスタルジックに浸って読むと
感動の雨あられなのですが、
ちょっと視点を変えると
別の一面が見えてきます。
エーミールの立場に立つと、
状況は変化します。
希少種のヤママユガの繭を
苦労して見つけた、
それを丁寧に採取し育てた、
その甲斐あって羽化した、
細心の注意を払って標本にした、
ちょっと部屋を離れた隙に
何者かがそれを破壊した、
丹念に修復を試みる、
しかし欠損部分もあり
復元は不可能だった。
そうこうしているうちに
隣に住む同級生が来訪し、
それは自分がやったのだと言う。
書かれてあることをもとに
エーミールサイドの
ストーリーを組み立てると、
怒りを通り越して
「そうか、そうか、
つまり君はそんなやつなんだな」
と言い放ちたくなる気持ちは
十分理解できます。
さらに第三者的視点で見ると、
悪いのは100%「ぼく」の方なのです。
留守の部屋に無断で侵入、
貴重な蝶の標本を盗む、
さらには修復不能なまでに破損させる。
不法侵入の上の窃盗など、
言い訳のしようもありません。
十分な謝罪をつくすわけでもなく、
その上、相手の態度に腹を立てるなど、
言語道断です。
いかにも母親から謝ってこいと
言われたので行きました、
という態度が見え見えです。
大人になってからの語り口にも
問題があります。
「この少年は、
非のうちどころがないという
悪徳を持っていた。」
何も落ち度のない同級生を
あたかも悪者のように仕立て上げ、
自分こそが被害者であるような印象を
聞き手の友人に与える言い回し。
果たして罪の意識があるのかどうか
疑問です。
なんだ、「ぼく」は
単なる僻み根性の
偏狭な人間じゃないか、
と思いたくなるのですが、
それでは本作品の良さが
見えなくなってしまいます。
冷静に見ると悪いのは
「ぼく」の方であるにもかかわらず、
読み手は自然と
少年である「ぼく」に対して
移入せざるを得ない感情表現の数々。
読み終えると
「ぼく」の幼い日の心の傷を
自分自身のことのように
味わってしまう筋書き。
すべて作者ヘッセと訳者高橋健二の
共同作業のなせる技なのです。
不完全で未成熟な
少年の心を疑似体験する。
それが本作品に対する
大人としての
正しい読み方なのではないかと思う
今日この頃です。
(2019.10.31)