「あらしのよるにⅠ」(きむらゆういち)

何を重ね合わせるかによって見えるものがちがう

「あらしのよるにⅠ」
(きむらゆういち)講談社文庫

激しい嵐の夜、
白いヤギはやっとの思いで
丘の下の小さな小屋に潜り込む。
やがてそこにもう一匹、
嵐を逃れた
来訪者がやってくる。
暗闇の中、
お互いの顔はわからなかった。
しかし…、やってきたのは
オオカミだったことに気付く…。

ご存じ「あらしのよるに」シリーズ。
絵本から始まり、続編に次ぐ続編、
アニメ映画ができたかと思えば
TVアニメにもなり、
ゲームソフトが登場したかと思えば
歌舞伎上演までされる。
一大ブームになった感がありますが、
うかつにも大人向け文庫本が
登場しているとは知らず、
ようやく入手し読むことができました。

絵本はいいです。癒やされます。
大型の子ども用絵本も
もちろん好きなのですが、
このほとんどモノクロの
大人向け文庫版絵本も
いい味が出ています。

さて、食べるものと
食べられるものという
立場を乗り越えて結ばれた友情物語。
創作であり、自然界では
決してありえない話なのです。
そのため感動の声とともに
覚めたつぶやきも
ネット上には溢れています。
それはおそらくヤギとオオカミに
何を重ね合わせるかによって
見えるものが
ちがってくるからなのでしょう。

宮本亜門が解説で述べているように、
重ね合わせるものは
国であり、民族であり、
宗教であるのかも知れません。
ヤギ・メイと
オオカミ・ガブの友情にとって
「あらしのよる」は始まり
もしくはきっかけにすぎず、
それを維持するために
お互いに苦悩していくようすが
第2話以降に描かれています。
特にメイに対する
ガブのぎこちない態度を読むと、
決して交わらざるべき者どうしが
何とかして交わろうと
懸命に努力している姿が
イメージされてしまいます。

私たち人間は、
お互いの違いを乗り越えて
一つになれるのだろうか、
いやそれ以前に
一つになろうとしているのだろうか。
そのためには
どんな「嵐」が必要なのだろうか。
お互いの存在を脅かすような「嵐」とは
何が考えられるのだろうか。
ついついいろいろなことを
考えてしまいました。

そんな難しいことを考える
必要はないのかも知れません。でも、
「ありえないこと」という冷めた見方や、
「少女を追いかける
ストーカーおじさん」的な
曲がった読み方をするのは
もったいないと思います。
素直に物語世界を受け入れ、
入り込む心を持ち続けたいものです。

(2019.11.6)

Felix MittermeierによるPixabayからの画像

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