「四年のあいだのこと」(久坂葉子)

それはどこへも行き場のないエネルギー

「四年のあいだのこと」(久坂葉子)
(「幾度目かの最期」)講談社文芸文庫

スイートピーの花束を持って、
何かに惹かれるように
A駅に降り立った「私」。
五分ほど歩いた先にある
一軒の家の前で、
「私」は立ち止まる。
不意に見えた人影に、
「私」は慌てて駆けだしてしまう。
「私」は人影の主に
恋をしていた…。

30歳の医師ササダと出会った
16歳の「私」。本作品は、
「私」の4年間の心の動きを追った、
短編小説です。

なぜ「心の動き」なのか?
それは二人に具体的な交流がなく、
「私」の片思いだからなのです。
片思いの恋を描いた作品なら、
ライトノベルをあたれば
ごまんとあります。そんな
甘酸っぱいものではありません。
思いっきり苦々しいものです。
すれ違いは三度におよびます。

一度目は、16歳。
女学校へ登る石段を、
私は登る、彼は降りる。
文字通りのすれ違い。
ところが「私」の病気の際、
往診してきたのが彼。
「私」の想いは募る一方。
でも「私」の両親は、
彼を姉の結婚相手へと画策。
幸か不幸か彼には先約が。
彼はお金持ちのお嬢さんのもとへ、
婿入りするのでした。

二度目は、一年後。「私」は17歳。
彼への想いは膨らむ一方。
それをどうすることもできない。
就職するも、自暴自棄的状況へ。
何度目かの大阪出張の際、
意を決して、
彼の就職先の病院へ面会に行く。
しかし…、すでにその病院を退職し、
彼は開業していたのでした。

そして三度目が今回。

すべての思いは彼には届きません。
届けるような行動も起こせません。
迸るような情熱だけがあるのです。
しかしそれはどこへも
行き場のないエネルギーなのです。
多分、久坂葉子は、
作品中の「私」のように、
自己の内部に行き先のないエネルギーを
ずっと循環させていたのでは
なかったかと思われます。
そして、それを制御しきれずに、
心がメルトダウンを起こしたかのような
生き様といえます。

それにしても、
こんなにも鮮烈で、
こんなにも先鋭で、
こんなにも瑞々しく、
こんなにも痛々しげな作品を、
彼女は17歳で書き上げていたのです。
恐ろしいほどの才能の奔流です。

生きていたら…などと
野暮なことは言いますまい。
長生きできるような精神ならば、
このような小説は
書けなかったでしょう。
あまりにも短く疾走した
久坂葉子の文学世界。
再々評価の気運が
高まることを願います。

(2019.11.14)

Jonny LindnerによるPixabayからの画像

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