「影法師」(内田百閒)

日常見慣れているものが歪な形をなして迫ってくる

「影法師」(内田百閒)
(「日本児童文学名作集(下)」)
 岩波文庫

ある家に住み着いた鼠たちが、
巨大な猫の影法師を見て肝を潰す。
猫の大入道だ!
ただ事でないぞ!
大猫は口から煙を
吐き出したかと思えば、
その口を大きく開ける。
逃げ出す算段をしている鼠たち。
そのとき大猫は立ち上がり…。

前回取り上げた内田百閒
実は童話も書いています。
「王様の背中」という童話集が
存在するのですが、
廃刊となっていて、
古書でしか入手できません。
私はまだ手に入れていませんが、
収録されている一つが本作品です。

本作品は挿絵を含めて5頁、
本文だけだと2頁足らずでしょう。
いたって単純な筋書きです。

鼠たちが見たのは
障子越しにおばあさんが吹いた
煙草の煙。
それがたまたま
大猫の形となっただけなのです。
その影法師を見て、鼠たちは恐怖し、
隣の家へ避難しようとします。
隣の猫はすばしっこいので
かえって危険なのですが、
そんなことにはかまっていられません。

たったそれだけなのですが、
挿絵と相まって、ほのぼのとした、
変に教訓じみたところのない、
純粋な童話に仕上がっています。

もしかしたら、
これが百閒の怪談ものの
基本なのかも知れません。
ハーンのように
妖怪変化を書き表すのではなく、
日常見慣れているものが
歪な形をなして迫ってくる、
その正体が見えないゆえの怖さ。
それによって
自らの内面からわき起こる恐怖。

前回の「とおぼえ」も、
そのような視点で見ると、
実はどこにも霊的なものは
ないのかも知れません。
帰り道に「私」が感じた恐怖は
暮れかかった一人道の
不安かも知れないし、
人魂は主人の目の錯覚かも知れない。
犬の遠吠えはそのように
聞こえただけかも知れないし、
酒を買いに来る女には
何か事情があったのかも知れない。
そして最後の恐怖も、
「主人に怖がられたために、
戯れとして『自分も亡霊かも』という
気持になった」とも判断できます。

そう考えたとき、
百閒の「怪談もの」は、
実は人間の心の奥底にある
「恐れ」を描いたものではないかと
考えられるのです。

前回とはやや違った
結論となってしまいました。
百閒は見えざる
迫り来る恐怖を暗示したのか、
それとも
人の心の闇を誇張させたのか。
時間をかけて百閒の著作を探し出し、
読み解いていきたいと思います。

(2019.12.11)

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