虚構の世界はユートピアではない
「魔法のチョーク」(安部公房)
(「百年文庫076 壁」)ポプラ社

「魔法のチョーク」(安部公房)
(「壁」)新潮文庫

貧乏画家のアルゴン君は、
空腹に耐えかね、
偶然見つけた赤いチョークで
パンやバター、りんごの絵を
壁に描く。
そのままうたた寝をした彼は、
夜更けに物音に目覚め、
そこに壁の絵の食物が
実物として現れているのを
見つける…。
壁に描いた絵が実物となる
魔法のチョーク。
何とも羨ましいかぎりですが、
そううまく事は運びません。
太陽の光を浴びると
消えてしまうのです。
朝になると消えてしまう魔法であっても
それは使いようです。
現金を生み出し、それを夜のうちに
現物と交換してしまえばいいのです
(もちろん犯罪ですが)。
アルゴン君もそこに気付きます。
彼はその「魔法」をどう使うのか?
彼は魔法によって生み出した現金で、
厚手の毛布や黒色のラシャ紙を買い込み
ドアと窓を塞ぎ、部屋に外の光が
入り込まないようにするのです。
つまり、部屋を常時夜の世界にし、
魔法が途切れないようにしたのです。
生み出した現金で食材を買い、
空腹を満たすことは
十分に可能だったはずです。
質入れした画材を
取り出すこともできたはずです。
画家として再起を図ることなど
彼の思考には微塵もなく、
虚構の世界へ閉じこもろうとしたことに
彼の悲劇の始まりがあったのです。
現代の子どもたちに似ています。
ネットという至極便利なツールで、
学習に役立つ知識を得るのでもなく、
自分の進路を切り拓く
情報を得るのでもなく、
海外の社会情勢や科学の最新の知見等、
見識を広げようとするのでもなく、
その疑似空間に浸って現実から
目を背けようとしている子どもの
なんと多いことか。
確かに虚構の世界の方が
居心地が良いのかも知れません。
しかしその世界は
ユートピアなどではありません。
自分の部屋の中に構築した夜の世界で、
アルゴン君は自分の生み出した
「イブ」に殺害され、
壁の中に飲み込まれてしまいます。
ネット空間も同様であり、
居心地の良い空間が
いつ牙をむいてくるか分かりません。
そして身を滅ぼされた若者たちは
虚構世界に埋没していくのでしょう。
アルゴン君の最後の姿は
現代の引きこもりの若者たちの姿と
重なります。
まるで現代のネット社会を
予見したような
安部公房初期の傑作短篇。
編まれたのは1950年。
ネットはおろかコンピュータすら
別世界の存在だったはずです。
安部公房の想像力の産物です。
※主人公の名前として与えられた
「アルゴン」は、
大気中に約1%の割合で含まれる
気体からとられているそうです。
アルゴン原子は不活性であり、
分子をつくらず
1個の原子からなる
単原子分子として存在します。
他人と結びつかない人間が、
人口の約1%いる、という
作者・安部の皮肉が
込められているのでしょうか。
実際には1%以上
存在しそうですが。
〔「百年文庫076 壁」収録作品〕
ヨナ カミュ
魔法のチョーク 安部公房
「人生」という名の家 サヴィニオ
〔安部公房「壁」収録作品〕
S.カルマ氏の犯罪
バベルの塔の狸
赤い繭
洪水
魔法のチョーク
事業
(2019.12.18)

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