「ナイン」(井上ひさし)

不思議な立体感のある短編小説です。

「ナイン」(井上ひさし)講談社文庫

「ナイン」講談社文庫

かつて住んでいたアパートの
家主を訪ねた「わたし」は、
主人と当時の少年野球団の
思い出話をする。
主人の息子が入っていた
そのチームは、
地区で準優勝するほど強かった。
そのナインも今はほとんどが
この町を離れたのだという…。

わずか10頁の短篇作品なのですが、
長編小説に匹敵するほどの
深い味わいに溢れています。
前半は畳屋を経営している主人と、
後半は主人の息子・英夫との
思い出話だけなのですが、
その中心は、少年野球団の
キャプテン・正太郎です。

正太郎は二年前、英夫のもとを訪れ、
畳85万円分をだまし取り、
さらに一年前、同じチームメイトの
常雄のところにも現れ、
400万円あまりの現金と、
さらには常雄の妻をつれて
姿を消したのです。
しかし、英夫も常雄も
正太郎を恨んでいるわけではなく、
むしろ感謝しているのだといいます。

「決勝戦まで
 一緒になってたたかうと、
 そこまでチームメイトを
 信じるようになるのかな。
 うーん、分るような気がする」

という「わたし」の言葉を、英夫は
「おじさんには分りません」と遮ります。
このあとの彼の述懐が
本作品の読みどころです。
ぜひ読んで
確かめていただきたいと思います。

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物語には不思議な立体感があります。
それは現在(1984年)と
過去(1966年)が重層的に立ち現れる
作品構成がつくりだしています。
「わたし」はその18年間の中で
失われたものの数の多さに
戸惑っているのでしょう。

失われたものの一つは、
舞台となっている四谷新道の街並み。
「ささやかにではあるが、
しっかりと自給自足しており、
そこで小路全体に自信のようなものが
みなぎっていた」はずなのに、
今では
「一番にぎやかな場所」でありながら
「脆い通り」に
なってしまっているのです。

もう一つはそこに住む人間、
特に新道少年野球団の子どもたちが
街を離れてしまったこと。
そして正太郎のように
人が変わってしまった者もいること。

その中にあって、
英夫は「変わらないもの」を
信じ続けているのです。
「ぼくは中学でも高校でも
 野球をやっていた。
 でも、あんな思いをしたのは、
 あのときだけです」

「あんな思い」を
共有したものどうしにしか「分らない」
価値というものがあるのです。
「わたし」の安易な同情や共感を
明確に拒絶するほど、
その思いは強いのでしょう。

高校教科書にも掲載されていたため、
読んだことのある方も多いと思います。
井上ひさしの味わいの深い一篇。
大人になった今、
もう一度読んでみませんか?

※難しい作品です。
 結末の一文「この十何年かのうちに、
 ここには西日がささなくなって
 しまったようである。」
 を読む限り、
 「わたし」は爽やかなものを
 感じているのではなさそうです。
 では、「わたし」、いや作者・井上は
 どんな思いで本作品を
 著したのでしょうか。
 もう一度高校現代文の授業を
 受け直したいと思いました。

※よく指摘されることですが、
 「ナイン」一人一人の名前と経歴が
 作品中に紹介されるのですが、
 なぜかセンターを守っていた
 人物の名前だけが登場しません。
 これだけ緻密な構成の短編小説を
 書き上げてあるのですから
 「書き落とした」という
 単純ミスなどでは
 ないと思うのですが。

(2020.1.29)

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