「蜻蛉日記」(右大将道綱母/角川書店編)

本作品を一段高いところから俯瞰したとき

「蜻蛉日記」
(右大将道綱母/角川書店編)
 角川ソフィア文庫

「蜻蛉日記」角川ソフィア文庫

かくありし時過ぎて、世の中に、
いとものはかなく、
とにもかくにもつかで、
世に経る人ありけり。
容貌とても、人にも似ず、
心魂も、あるにもあらで、
かうものの要にもあらであるも、
ことわりと、思ひつつ、
ただ臥し起き明かり…。

現代でいう「日記」とは、
日々の生活における事実や所感を
記録したものなのですが、
「日記文学」はそれとは異なります。
紀貫之が自らを女性と偽り、
自身の内面を書き綴った「土佐日記」が
「日記文学」の源流なのですが、
「蜻蛉日記」はその流れを汲みながら、
そこに物語性を強く内包させた
「文学」なのです。
では、「物語性」とは何か?

「蜻蛉日記」は作者・藤原道綱母が、
破綻した夫婦生活への悲憤という
現在の自分の感情をもとに、
過去の事実を取捨選択し、
あたかも現在進行であるかのように
書いたものです。したがって、
夫・藤原兼家の冷たい側面が
自然と拾われることとなり、
本来あったであろう
温かな夫婦生活については
割愛される傾向にあります。
結果として作者の心の痛みのみが
前面に押し出された内容に
なっているのです。

さて、「蜻蛉日記」をどう読むか?
現代にも通じる弱い女性の立場に
視線を向け、女の生き方の悲哀を
読み取るのも一つの読み方です。
また、中巻・下巻に進むにつれて
兼家への愛を諦め、
一人の母親としての母性愛に目覚める
生き方に注目し、
女性の魂の成長記として受け取るのも
一つの読み方です。
しかし、兼家と作者の
すれ違いに目を向けたとき、
「蜻蛉日記」の違った面が
見えてくるような気がします。

兼家は一言でいえば洒落者です。
作者の家を素通りして
別の愛人のもとへと駆け込むなど、
細かいことを
気にしない面がありながら、
細やかに作者のご機嫌を伺い、
愛情を示しています。
作者に大きな信頼を寄せるとともに、
甘え上手ともいえる
接し方をしているのです。

一方、作者は
生真面目で堅物な女性なのです。
兼家のそうした人間性を
受け入れられれば
よかったのでしょうが、
ことごとくはねつけます。
美人であり教養も高かったのも
そうした傾向に拍車をかけました。
「源氏物語」でいえば
葵の上か六条御息所の女性像が
あてはまるでしょう。

最初から上手くいくはずが
なかったのです。
あまりにも性格が違いすぎました。
作者の心情から離れ、「蜻蛉日記」を
一段高いところから俯瞰したとき、
兼家と作者のすれ違いは、
悲哀を通り越して滑稽ささえ
感じてしまいます。
作者にははなはだ失礼なのですが。

もし作者もまた一段高いところから
過去の自分を見つめ、
兼家とのすれ違いの理由を
十分に理解した上で、
淡々と書き綴ったものだとしたら、
「蜻蛉日記」の存在は「日記文学」から
大きく「物語」へと転換するはずです。

古典もまたいろいろな読み方が
できていいはずです。
高校生にお薦めします。

(2020.3.28)

Mystic Art DesignによるPixabayからの画像

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