「胡桃割り」(永井龍男)②

絵かきに対する「私」のリスペクトの念

「胡桃割り」(永井龍男)
(「朝霧・青電車・他」)講談社文芸文庫

「胡桃割り」(永井龍男)
(「教科書名短篇 少年時代」)中公文庫

友人と二人で
絵かきの家を訪問した「私」。
食後に差し出されたのは
ブランデーと胡桃だった。
絵かきは
「今日は親父の命日でね」と言う。
腑に落ちぬ顔でいる私たちに、
絵かきは父親の思い出を
語り始める。
それは絵描きが少年の頃…。

かつて国語の教科書に掲載された
本作品について、
前回「少年の成長物語」と書きました。
しかしそれは
作品全体を指してはいません。
絵かきである「僕」が語り手の幼い日を
回想する部分を挟み込む形で、
絵かきを訪ねる「私」が
語り手となる部分が存在します。
「少年の成長物語」は、
その「挟まれた部分」なのです。

この部分は少年である「僕」の心情が、
胡桃割りを通して
実に丹念に描かれています。
今回は「私」が語る部分を
見てみたいと思います。

作品は「私」がもう一人の「友人」と
六大学野球を観戦する場面から
始まります。
絵かきはそれに加わってはいません。
絵かきは
野球には興味がないのでしょう。
つまり絵かきは、
「私」や「友人」とは
趣味の異なる人間なのです。
もう一人の「友人」に着目すると、
「秋もはや熱き紅茶とビスケット」という
虚子の句を持ち出していることから、
おそらくは
文学部卒ではないかと思われます。
芸術家の「絵かき」、
文学畑の「友達」、
そして体育会系の「私」。
本作品は「私」の目から見た、
異なる文化を持つ「絵かき」の姿という
ことになるのでしょう。

本作品は、終末部で
絵かきの胡桃を割る音が取り上げ、
「私の割る音とは、
 どうしても違うのだ」

締めくくられてています。
前回も書いたとおり、
胡桃割りは要領を得なければ
使えない道具です。
絵かきの積み重ねてきた年月や経験は、
「私」のそれとは違う重みが
あったということでしょう。
そこに絵かきに対する
「私」のリスペクトの念が見られます。

ところで本作品には副題として
「ある少年に」という文言が
付されています。
「ある少年」とは
この絵かきの少年時代と考えられます。
作者・永井龍男には
実際にそのモデルとなるべき
友人がいたのかも知れません。
絵かきに対する「私」の敬意は、
永井の友人に対する崇敬の気持ちから
来ているものと考えべきでしょう
(それを裏付ける資料を
まだ見つけてはいないのですが)。

教科書に載った本作品を、
永井は少年あるいは高校生のための
読み物として創作したのでは
ないのかも知れません。
大人がじっくり味わうべき
作品なのでしょう。

(2022.2.8)

Toshiharu WatanabeによるPixabayからの画像
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