「あこがれ」(阿部昭)

新旧の価値観のせめぎ合いこそ堪能すべき

「あこがれ」(阿部昭)
(「教科書名短篇 少年時代」)中公文庫

「教科書名短篇 少年時代」中公文庫

春がきた。ところが少年は
ねむいどころではなかった。
朝も起こされなくても
ちゃんと目をさます。
とびおきて布団をまくりあげ、
前の晩から寝押ししておいた
ズボンをはいて、
すぐ洗面所へ行く。
父の櫛を水でぬらして、
鏡の前で…。

粗筋代わりに冒頭の一節を載せました。
鮮烈な春―それも季節だけではなく
少年の心も含めた―の訪れを
感じさせる書き出しです。
かつて国語の教科書にも
載ったことのある、
阿部昭の名作です。

少年は朝、
自身で起床するだけではありません。
毎日、決まった時刻に
正確に家を出るのです。
学年が上がり、規則正しい生活が
できるようになった、というものでは
ありません。
少年は年上の「彼女」が
気になっているのです。
だからこそ、わざわざ時刻を
きっちり合わせて駅に向かうのです。
自分から声をかけることもできず、
駅に佇んでいる彼女を
向かい側のホームから
眺めているだけなのですが。

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しかしある朝、
彼女が家の門から出るところに
少年はばったり出くわします。
彼女の方から
「おはよう」と声をかけられ、
思わず急ぎ足になる少年。
「おくれそう?」と心配され、
「じゃあ走れば。」と諭され、
つい全力で走る少年。
一緒に歩く好機を
ふいにしているのです。
読んでいるこちらが
恥ずかしくなるような、
昭和の時代の青春物語なのです。
そうした部分も
本作品の味わいどころなのですが、
それ以上に、
新旧の価値観のせめぎ合いこそが、
本作品で
もっとも堪能すべき点と考えます。

本作品の味わいどころ①
年上の女性に恋する少年

少年が憧れたのが
年上の少女であることが、
本作品の肝ではないかと考えます。
同年代でもなく年下でもなく、
年上の高校生。
戦時中は恋愛感情を持つことさえ
はばかられていたはずです。
それが終戦も間もなく、
少年は恋愛感情を
ごく自然に意識しています。
それに対して、少年の父母は、
少女との交際を快く思っていません。
男女交際、
それも年上の女の子に対する
我が子の恋愛を、
そのまま見ているわけには
いかなかったのでしょう。
戦争の終了によって大きく変わった
価値観の一つが
ここに浮き彫りになっています。

なお、少年の初恋は成就することなく、
少女の引っ越しで突然終わります。
少年は失恋のほろ苦さを
味わうことになるのです。

本作品の味わいどころ②
失われた大人像のモデル

その少年は、父親を尊敬しています。
それも軍人としての父親を
尊敬しているのです。
戦時中はもとより、
それは父親が帰還しても
簡単に変わるはずはありません。
ところがその父親は、
仕事についてもうまくいかず、
職を転々とします。
いつも疲れた顔をして、
少年の母親からはなじられ、
もはやそこには尊敬される父親像は
存在していないのです。
目指すべき大人像・父親像の喪失。
これこそ戦中戦後で
大きく変化してしまった
価値観なのでしょう。

それでも少年は「大人」を目指します。
最後の場面、買い求めた煙草を
川岸で吸ってみたのは、
少年のできる精一杯の
背伸びだったのでしょう。
しかし、その煙草の味は
少年の予想を超える「悪さ」であり、
ここでも少年は人生の「苦さ」を
経験することになるのです。

本作品の味わいどころ③
進む季節、淀む水の流れ

少年は、その煙草の箱を
マッチとともに川に投げ捨てます。
その終末の一文が見事です。
「少年がタバコの箱と
 マッチばこを投げこむと、
 そのふたつが、浮きながら、
 離ればなれに川を
 さかのぼって行くのが見えた」

河口付近であり、満ち潮に伴って、
川面には
静かな逆流が起きていたのです。
これが冒頭の一文「春がきた」と
対比されるしくみです。
季節は着実に進行しているのに対して、
水の流れは淀んでいます。
ここにこそ、新しい時代の本流と、
それに抗するかのような
古い価値観とのせめぎ合いを
見て取れるのです。
二つの流れの狭間に立って、
少年は大人へと成長していくのです。
かつて、私たちの国は、
このような時代を経験していたのです。

「教科書なんて」と、
中学生時代は感じたものでした。
でも、大人になって読み返すと、
教科書に掲載された作品の
質の高さに驚かされます。
国語の教科書に載った作品を集めた
アンソロジー「教科書名短篇」。
現在4冊が刊行されていますが、
その中でも味わい深い
本書「少年時代」を、
ぜひご賞味ください。

〔「教科書名短篇少年時代」収録作品〕
少年の日の思い出 ヘルマン・ヘッセ
胡桃割り 永井龍男
晩夏 井上靖
子どもたち 長谷川四郎
サアカスの馬 安岡章太郎
童謡 吉行淳之介
神馬 竹西寛子
夏の葬列 山川方夫
盆土産 三浦哲郎
幼年時代 柏原兵三
あこがれ 阿部昭
故郷 魯迅

(2023.3.30)

Jill WellingtonによるPixabayからの画像

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