「茗荷谷の猫」(木内昇)

「ささやか」でありながらも「確かな」生き方

「茗荷谷の猫」(木内昇)
(「茗荷谷の猫」)文春文庫

「茗荷谷の猫」文春文庫

絵を描いて細々と
生計を立てている文枝は、
最近思うような絵が
描けなくなっていた。
彼女は、月に一度来訪する
緒方という男に
絵を預けていたのだが、
その緒方から、自身のことを
絵に描いてみてはという
提案を受け、動揺する…。

かつてアンソロジーの一篇として
収録されていた
「てのひら」を読んで以来、
木内昇は気になる作家の一人でした。
今回、その「てのひら」が収められている
連作短篇集を入手、
その表題作を読みました。
何も事件は起きません。
登場人物は限定的であり、
際だった個性があるわけでも、
劇的な生き方をしているわけでも
ありません。
穏やかに時間が流れていき、
その一場面を切り取ったような
作品なのですが、
「てのひら」同様、しみじみとした
深い味わいに満ちています。

〔登場人物〕
文枝

…茗荷谷の一軒家に住む。
 絵を描いて生計を立てている。
 夫を事故で亡くしている。
 最近、思うような絵を
 描けないでいる自分に気づく。
緒方
…月に一度、文枝のもとに現れ、
 絵を預かり、画商に斡旋している。
 文枝に新しい絵について提案する。
「夫」
…文枝の夫。役場への出勤を装い、
 浪曲家の見習い弟子として
 修行していた。十年前、
 乗り合わせた市電の事故で死亡。

三人とも、
高名でもなければ一流でもありません。
文枝は画壇から
認められているわけではなく、
その絵も画商と直接取引していません。
緒方が間に入って
ようやく売れているのです。
絵で生計を立てているとはいえ、
「細々と」という状態なのです。
その緒方も、プロの画商ではなく、
無名の画家の作品が世に送り出される
手伝いをしているようなものでしょう。
「夫」にいたっては、浪曲家として
芽が出る以前に世を去っています。

それでいて三人とも、
それぞれの「生業」に対して真摯であり、
静かな情熱を燃やして
取り組んでいるのです。
文枝は「売れる絵」を描こうとする
気持ちは微塵も持っていません。
「売れる絵」を描く画家に
なるべきであることを承知しつつ、
それに転回することを
潔しとしていないのです。
緒方もまた、売れる画家と手を組み、
利益を上げようなどと
考えてはいません。
文枝が絵について
行き詰まっていることを
見抜きながらも、
文枝の絵の新しい可能性について、
遠回しに、遠慮がちに、
ささやかな助言として
提案するだけなのです。
「夫」については
詳細な記述が見当たりませんが、
妻である文枝に隠してまで
浪曲に打ち込んでいたことは確かです。

三人の仕事は、
決して大衆の支持を得るものでもなく、
後世に名の残るものでもなく、
ごく「ささやかな営み」に過ぎません。
それでいて、
それぞれの生き方を底光りさせるような
力強い「確かさ」を持っているのです。

今日のオススメ!

ふと世の中を見渡すと、
大谷翔平や藤井聡太といった、
若いながらも偉業というべき成果を
達成している人間が
数多く目に映ります。
いや、おそらくは
職場を見渡しただけでも、
自分より業績を上げている、もしくは
自分よりも高い地位にいる同僚を、
何人か見つけることが
できるのではないでしょうか。
彼らは彼らで素晴らしい生き方を
しているのは確かです。
しかし、けっして注目されなくとも、
「ささやか」でありながらも
「確かな」生き方はできるのではないかと
本作品は教えてくれるかのようです。

早くに夫を亡くしたことが、
文枝の心に滓のように沈殿している、
それが直接的な記述ではなく、
いくつかの状況証拠として
描かれています。
床下の猫の巣に、途中から侵入してくる
「不穏な鳴き声」の持ち主。
それが結末で飛び去っていく描写は、
一皮むけた文枝の心の
暗喩なのでしょう。
新しい一歩の、
静かな踏み出しを予感させます。

どこまでも静かに、読み手の心に
染み入ってくる作品であり、
その穏やかさと温かさに驚かされます。
極上の逸品を、ぜひご賞味ください。

(2024.3.18)

〔「茗荷谷の猫」〕
染井の桜
黒焼道話
茗荷谷の猫
仲之町の大入道
隠れる
庄助さん
ぼけっとの、深く
てのひら
スペインタイルの家

〔木内昇の本はいかがですか〕

dae-il seoによるPixabayからの画像

【今日のさらにお薦め3作品】

【こんな本はいかがですか】

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA