「目玉の話」(バタイユ)

楕円形球体に対する異常な嗜好、それはいったい…

「目玉の話」(バタイユ/中条省平訳)
(「マダム・エドワルダ/目玉の話」)
 光文社古典新訳文庫

「マダム・エドワルダ/目玉の話」

シモーヌは自分の尻で
卵を割るという奇妙な遊びに
熱中しはじめました。
低い肱掛椅子の座席に頭を載せ、
逆さになって
背中を椅子の背もたれにあずけ、
脚を曲げます。
私が椅子の後ろに立ち、
彼女の顔に精液をかけるために
自慰を…。

何ともお下劣な一節を
抜き出しましたが、全篇この調子です。
いや、これ以上の破廉恥な描写が
連続するのです。
フランスの作家ジョルジュ・バタイユ
代表作「目玉の話」です。
併録された
「マダム・エドワルダ」をはじめに読み、
その異常な世界に衝撃を受け、
この三年あまり、本作品を読むことを
躊躇していました。
ようやくほとぼりが冷め、
本作品を読みましたが…、
「マダム」以上の衝撃度が
待ち構えていました。

〔主要登場人物〕
「私」

…語り手。十六歳前後の少年。
 異常な性癖を持つ。
シモーヌ
…「私」と同じ年頃の少女。
 遠縁にあたる。「私」と出会い、
 楕円形球体への異常な嗜好を持つ。
マルセル
…「私」とシモーヌの友人である美少女。
 二人の異常性癖に触れ、発狂する。
 純真な性格。
エドモンド卿
…シモーヌを異常偏愛する資産家。
 イギリス人。
 シモーヌには手出ししない。
グラネロ
…シモーヌがスペインで気に入った
 闘牛士。
ドン・アミナド
…シモーヌの告解を聞き取った神父。
 金髪の美男子。

書かれてあるものを単純化すると
「十六歳の少年少女・「私」とシモーヌの
異常性癖」ということになりそうです。
しかし単純な
一対一の場面がないのです。
前半部では、
シモーヌの母親の目撃があったり、
マルセル(本人だけでなくその妄想)を
含めた三者の関係であったり、
他の未成年者を巻き込んでの
乱痴気騒ぎであったり、
また後半部では
常にエドモンド卿の眼前であり、
さらにはドン・アミナドを陵辱したりと、
そこには必ず二人以外の
「他者」が存在しているのです。
これだけを見ても、
「少年少女のエロス」といった
単純なものではないことは確かです。
なお、注意深く読むとそこに
膣挿入はないことに気づきます。
それが現れるのは後半部のみであり、
そこにも何か意味がありそうです。

そしてそれらの性交場面の多くに、
「放尿」もしくは「流れる液体」が
描かれていることも見逃せません。
マルセルとの三人の場面では、
降りしきる雨の中、
泥にまみれての性行為です。
乱痴気騒ぎでは「放尿」のみならず
「出血」「嘔吐」なども描かれています。
頻出する「放尿」に
辟易とせざるを得ないのですが、
そこにも何らかの作者の意図が
ありそうです。

さらに抜粋した部分に代表される、
「楕円形球体に対する異常な嗜好」が
本作品の特徴です。
その「楕円形球体」とは、
「玉子」がはじめに登場するのですが、
やがて「目玉」「金玉」が付け加えられ、
その異様性が増します。
ここで「卵」ではなく「玉子」、
「睾丸」ではなく下品な「金玉」である
理由は、原文のフランス語が
韻を踏んでいるため、
それに合わせた音韻のことばを
選んだとのことでした。
形状も似ていて発音も近い、
それらの語が何らかの意味を持って
使われていることは
間違いないのでしょうが、
それらを使用した性的遊戯は、
もはやおぞましさを催さずには
いられません。
これらはいったい何を表しているのか?

さて本作品、かつては生田耕作訳による
「眼球譚」として知られていたものです。
そちらは未読ですが、
表題も訳文も時代がかったものと
なってしまっていることは確かです。
本書の中条省平の訳文は
現代的であるとともに、
原語の持つ押韻の豊かさを
最大限に生かしたものとなっています。

表面的なエロスに惑わされていては
本質を見誤る作品であることは
間違いありません。
しかしその「本質」とは何なのか?
その「わからなさ」もまた
本を読む愉しみの一つです。

(2024.6.10)

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