
不条理な状態も慣れ次第で当たり前
「耳の値段」(安部公房)
(「R62号の発明・鉛の卵」)新潮文庫
ある善良な大学生が、
なにかのはずみで
留置場にほうりこまれた。
なぜそういうことになったのか、
思い当るふしは
ぜんぜんなかった。
おかしなことに、
彼を捕えた警察官が
翌日交通事故で死に、ついでに
書類が紛失してしまった…。
耳を切り取られる話といえば
ハーンの「耳なし芳一のはなし」が
思い出されますが、
安部公房の本作品は
自分で耳を切り取ろうとする話です。
単なる滑稽譚のようにも思われますが、
やはり安部公房です、
難解な部分があり、
味わうのに思考力を要します。
〔主要登場人物〕
「彼」(目木)
…善良な大学生だったが、
理由不明で逮捕され、留置される。
横山
…目木の同級の大学生。
目木とともに保険金詐取を目論む。
「留置場の二人の男の先客」
…「彼」が留置される前から
拘留されていた被疑者二人。
「留置場の巡査」
…理由不明で拘置された「彼」を
担当した巡査。
本作品の味わいどころ①
金儲けのための六法全書という解釈
それまで六法全書は
「みだりな金儲けを取り締まるもの」だと
思っていた目木が、
実は「法律」とは
「金儲けのための手引き書」だと
実感したことから、
「耳切り取り作業」がはじまるのです。
目木のアイディアは、
「簡易交通傷害保険自動販売機」なるもの
(10円で2千円の保険がかけられる。
国鉄の改札を通って目的地の改札を
出るまでの間が有効)の保証率の違いを
利用して儲けようとするものです。
耳であれば、
日常生活に大きな支障がない割に、
保証率が10%と
高めの設定になっている、
200円分の保険券を購入し、
駅構内で事故に見せかけて耳を切断、
保障の満額の40万円の10%の
4万円を受け取れば、
差額3万9千8百円のもうけができる、
という計算なのです。
二人はあの手この手で事故を装い
耳を切断しようとするのですが、
まったく切れないのです。
「どういうわけだか
さっぱり成功しない。
それどころか耳はますます
たんれんされて、
日増しに丈夫になり、
大きさも厚さも
目にみえて増してきた」。
この、法律を逆手にとって
金儲けをしようと試みるも
失敗続きとなる二人の珍行動こそ、
本作品の第一の味わいどころなのです。
しっかりと味わいましょう。
本作品の味わいどころ②
釈放後の現実か、留置中に見た夢か
しかし安部公房作品が
そのような滑稽譚で
終わるはずがありません。
理解困難な箇所があり、
そこに作品理解の鍵が
隠されているような気がします。
冒頭から数えて四段落目に
次のような一節があります。
「ある日彼はおかしな夢を見た。
その夢の中で彼は
釈放されることになった」。
この一節から先、結末まで
その夢が覚めた記述は
見当たらないのです。
だとすると、この一連の
「耳切断作業」の挿話は
すべて夢の中の出来事と
考えることもできるのです。
しかも「彼」が釈放されてから、
固有名詞「目木」が登場し、以下、
「彼」(と思われる人物)は
「目木」と呼称されることになるのです。
はたして釈放後の目木の行動は
「彼」の夢の一部なのか、
それとも「彼」の実体験として
書かれたものなのか?
この、本編にあたる部分が
「釈放後の現実」であるか、あるいは
「留置中に見た夢」なのか、
多様な角度から検討し考えることこそ、
本作品の第二の
味わいどころとなるのです。
じっくりと味わいましょう。
本作品の味わいどころ③
不条理な世の中も慣れれば大丈夫?
釈放後の現実か、留置中に見た夢か、
どちらに転んだにせよ、
さらにわからないのは結末です。
最後の段落の意味が謎なのです。
「留置場についてみると、
これはまた偶然なことに、
せんだっての二人が
また戻ってきているのだった。
目木は思わず「やあ」と
顔をほころばせ、
今までにない大声で
元気よく言ったものである。
また戻ってきましたよ。
よろしくどうぞ」。
ここで書かれている「二人」とは、
目木が釈放前に
留置場で出会った二人の男です。
なぜこの場面が必要だったのか?
なぜ二人と再会する設定が
必要だったのか?
なぜ目木はその二人に対して
「顔をほころばせ」て「大声で元気よく」
挨拶したのか?
理解困難であり、やはりここに
安部の意図が潜んでいそうです。
考えられるのは、
留置場に慣れてしまった目木を
描くことによって、
不条理な状態も慣れ次第で
当たり前の環境になる、
その恐ろしさの警告でしょうか。
冒頭部の「彼」の逮捕は、
本人も警察も
理由がわからない状態での拘留であり、
不条理としかいいようのない状態です。
最後の逮捕もまた、突如として現れた
「留置場の巡査」によるものであり、
まともな状況ではなさそうです。
いずれにしても
簡単にはわかりそうにありません。
この、最後の場面に隠された
作者・安部の意図を
読み取る作業こそが、本作品の最大の
味わいどころとなっているのです。
たっぷりと味わいましょう。
さて、私たちの現実を見ると、
多くの日本人が、海の向こうの
「不条理なきな臭さ」に慣れ、
「当たり前にあること」として
受け入れているかのような雰囲気が
漂っています。
主食である米の値段が一年間で
倍に跳ね上がるなど
「不条理な生活苦」にも
いずれ慣れていくのでしょうか。
今、私たちに求められているのは
「正しい抗い方」なのではないかと思う
昨今です。
そんなことをあれこれ考えさせる
本作品を、ぜひご賞味ください。
(2025.6.13)
〔「R62号の発明・鉛の卵」〕
R62号の発明
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