「自由詩人」(石川達三)

自由であることは大変なこと

「自由詩人」(石川達三)
 (「百年文庫044 汝」)ポプラ社

「詩人」・山名は
ぶらりとやってきては
「私」の煙草を吸い、
借金を申し込み、
酒を飲んで帰っていく。
彼は貧乏ではあるが、
毎月三万円ぐらいの収入があり、
それは「私」と大して違わない。
彼は自由に
心のままに暮らしているのだ…。

収入はすべて
自分で遊興に使い切り、
金を渡さず
家族にひもじい思いをさせ、
金がなくなると
誰彼かまわず無心にくる。
返す返すと言いながら、
その金は絶対に返さない。
「詩人」・山名は、
いわば「だめ人間」なのです。
こんな人間がいたら、
現代では周囲からつまはじきに
されるだけではないでしょうか。

それが何となく許されている
(「私」が許している)のは、
山名の、
売れないけれども
人の心をうつ詩の力と、
不思議ともいえる
人間的な魅力なのかも知れません。
そして人々が貧しかった
この時代ならではの
ことなのでしょう。

それにしても「だめ人間」は、
文学ではよく登場します。
太宰の小説の主人公
(多くの場合太宰自身なのですが)は、
ほとんどが「だめ人間」です。
なぜ「だめ」なのか?
それは世間の常識に従わず、
人間関係を顧みず、
他人のことに思いが至らず、
自分のことだけを
考えているからです。
それは「身勝手」以外の
何物でもないのですが、
同時にそれは
精神の「自由」の謳歌者の証でも
あるのです。

自由に生きられればいい、と
よく言われます。
しかし自由であることは
大変なことだと思います。
何ものにも縛られないことは、
何ものからも
保護されないということと
表裏一体です。
「詩人」の最後もやはり哀れです。
胸の病に冒され、
あろうことか子どもとともに
自らの命を絶ってしまいます。

子どもを道連れに自死することは
許されないことに決まっていますが、
それも含めて
世間の常識から逸脱している、
つまり「自由」だということです。
「何事にも縛られない」というのは
素敵なことであると同時に、
何と悲惨なことなのだろうと
思わざるを得ません。
「自由に生きること」の中には
「野垂れ死にする自由」も
含まれているのですから。

私のような凡人は、
いろいろなものに
縛られてしまっていて、
それをときどき嘆いたりします。
しかし、
家族を大切にして
自分の行動を律すること、
将来を見越して
身の丈にあった生活をすること、
周囲との関係を考えて
自分の言動に制限を加えること、
そうした自分を「縛ること」は、
ある意味必要なのだと思います。
それは
平凡な生活なのかも知れませんが、
最も幸福な生き方でも
あると思います。

(2018.11.20)

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