「雪国」(川端康成)②

名作の冒頭の一文を間違えて記憶していた

「雪国」(川端康成)新潮文庫

昨日取り上げた名作「雪国」。
書き出しの一文は、
日本文学史上最高のものであり、
読んだことはなくとも
その一文だけは知っているという方も
多いのではないでしょうか。
それなのに…、
何をどうしたことか、
私は間違って覚えていました。
再読した今回、
ようやくそのことに気付いた次第です。
「国境の長いトンネルを抜けると、
そこは雪国であった。」と、
不必要な指示代名詞を挿入して
記憶していたのです。
恥ずかしい…。

正しくは
「国境の長いトンネルを抜けると
 雪国であった。」
です。
二文を声に出して読み比べてみると、
なぜか間違い文のほうが
しっくりくるのです。
落ち着いた文章のように感じます。
正しい文は途中に読点がなく、
一文を一気に読むことになり、
急ぎ足の感じを受けるのです。

しかし、
続く二文目三文目を読むと、
その理由がわかります。
「国境の長いトンネルを抜けると
 雪国であった。
 夜の底が白くなった。
 信号所に汽車が止まった。」

すべて短文でまとめ上げ、
テンポ感を創りだしているのです。
それによって読み手もまさに
汽車に乗ってトンネルを抜け出たような
臨場感を味わえるのです。
これに「そこは」を入れてしまうと、
落ち着くどころか
間延びが生じてしまいます。
この美しい日本語を味わうのが、
本作品を読む醍醐味なのでしょう。

ちなみに「国境」の発音は
「こっきょう」なのか
「くにざかい」なのかも
諸説あるようです。
これについても
冒頭の一文だけ抜きだして捉えると
「くにざかい」の方が
日本語としての味わいが深いと
感じるのですが、
三文続けて読んだときには
「こっきょう」の方が
語感がいいように感じます。
さて、川端はどちらのつもりで
「国境の…」と書き記したのでしょうか。

文章の美しさに
魅了される本作品ですが、
中学生に薦めるべきかどうか
少しだけ悩みました。
オブラートにくるまれて
ぼやかされてますが、
性的なものを扱っていることに
間違いありません。
「芸者」と表現されていますが、
「娼婦」とさほど変わらないはずです。

しかしそれを含めて、
日本語が高次なレベルで
美しく結晶した
文学作品としての「雪国」を
中学校段階で読んでおくことは、
一生涯にわたる読書生活を
良質なものとするための
重要な要素だと思うのです。
若い段階で作品に触れ、
その後、人生経験とともに
年齢にふさわしい読み方を
積み重ねていくことが
大切なのではないでしょうか。
だからこその「名作」です。

(2019.1.29)

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