「片腕」(川端康成)②

妖しい世界の表層をはぎ取れば

「片腕」(川端康成)(「眠れる美女」)新潮文庫

ふと目覚めたとき、
「私」の目に映った不気味なものは、
右腕であった。
ベッドに
「私」の右腕が落ちていたのだ。
全身が戦慄した「私」は、
慌てて「娘の腕」を肩からもぎ取り、
「私」の右腕とつけかえた。
娘の腕を投げ捨てて…。

恐怖映画の粗筋のように思えますが、
昨日の「片腕」の最終場面です。
「私」は娘の「右手」に何もしないまま、
無意識のうちに
自分の右腕とそれを付け替え、
娘の「右手」と一体化します。
そして「右手」と語り合ったまま
眠りに落ちたのです。
眠りから覚めた「私」の行動が、
最後に書かれてあるのです。

「娘の腕は
 ベッドの裾に投げ捨てられていた。
 はねのけた毛布のみだれのなかに、
 手のひらを上向けて
 投げ捨てられていた。」

そこにはもう、
妖しげな幻も、
つかの間の官能も、
すべて消え去っています。

私はこの場面が蛇足ではないかと
ずっと思っていました。
それまでの夢のような
心地良い世界から、
一気に現実に(といっても
腕の付け替えですから十分に
非現実なのですが)引き戻され、
苦い思いが残されるばかりだからです。

再読して気付きました。
重要なのは、
むしろこちらの方なのです。
夢から覚め、一人取り残された
(最初から一人なのですが)「私」の、
例えようのない孤独感こそ、
川端が
描きたかったものなのでしょう。

片腕を貸すくらいの
親しい間柄である娘と「私」。
にもかかわらず、
それ以上の関係性には
決してなりそうもない距離感。
娘には直接話せないことも、
娘のパーツである「右手」には
話してしまう矮小な「私」。
訪れるものの誰もない「私」の部屋。
その中で続けられる
「私」と「右手」のささやかな会話。
生身の人間そのものではなく、
一部分にしか愛情の形を示せない
「私」の鬱屈した性格。
そして腕の付け替えによって始めて
肉体的交わりを感じ得る
歪んだ「私」の人間性。
妖しい世界の表層をはぎ取れば、
その底には筆舌に尽くしがたい孤独が、
暗闇のように広がっているのです。

本作品に前後して発表された
「眠れる美女」「不死」「地」「白馬」等も、
やはり妖しい雰囲気を
湛えた作品ばかりです。
「日本人の心の精髄を
すぐれた感受性をもって
表現」したことで
ノーベル文学賞を受賞した川端康成。
「雪国」や「伊豆の踊子」だけが
注目されがちですが、
川端文学の本質はむしろこうした
幻想小説ともいえる
作品群の中にあると考えます。

(2019.1.30)

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