「アスファルトと蜘蛛の子ら」(島尾敏雄)

生の喜びと後ろめたさの混濁

「アスファルトと蜘蛛の子ら」
 (島尾敏雄)(「百年文庫035 灰」)ポプラ社

敗戦の日を告知された「私」は、
その前日、憲兵に捕らえられ、
拷問を受ける。
妙な液体を飲まされて
気を失った「私」は、
気が付くと朝を迎えていた。
まもなく始まる
「そのとき」の気配は、
島民や脱走兵の間に、
すでに漂っていた…。

「何者かの告知によって
敗戦の日を予知することが
出来た」というSF的な設定から
本作品は始まります。
前もって敗戦の日を
知っていたために、
戦火を巧妙にかいくぐって
生き延びたとか、
死ぬ運命にあった人を
助けることができたとか、
筋書きはそうした方向へは
一切向かいません。
SF的要素はまったくないのです。
では、「私」はその敗戦の日を
どう過ごしたか?

「その日」の前日です。
無実の罪で拷問を受ける。
薬物を飲まされ、
死にそうになる。
瀕死の状態を
島の娘に助けられる。
戦争の終わりが見えていながら、
敵ではなく
仲間に殺されかけるのです。

「その日」の
「そのとき」が過ぎてからです。
群衆の妄動を鎮めようとして
敵に背後から銃撃される。
死を覚悟したが、
奇跡的に命を取り留めていた。
停戦状態に
なっていたにもかかわらず、
アクシデントのために
敵から殺されかけるのです。

何も変わらない、
いや、何も変えられない。
終戦の時刻を知っていても、
自分の身一つ守ることができない。
大きな川の流れに
飲み込まれるかのように、
自分の生命がもてあそばれていく。
そんな虚しさが漂っています。

自分の力で
死線を乗り越えたのではない。
それは「私」の心を重くします。
「私はあの時あのように
 はっきりと自分を
 犠牲者の一人に
 数えていたのではなかったか。
 しかも私はこちら側に生き延び、
 生命の喜びに浸っているのだ。
 それは私の心を重く覆った。
 私は傷がなおったにしても
 どういう風に歩き出していいか
 見当がつかない。
 本当に私は生きていて
 いいのであろうか。」

生の喜びと後ろめたさの混濁した、
何とも言いようのない
感覚なのでしょう。

作者・島尾敏雄は、
戦時中魚雷艇の特攻隊長として
奄美諸島に赴き、
発進命令を受けないまま
終戦を迎えました。
死の一歩手前に常に佇み、
それを越えることなく
終戦を迎えた経験は、
特異な死生観となって作品から
滲み出てきているように感じます。

独特の戦争文学を編みだした
島尾敏雄の傑作短篇、
いかがでしょうか。

(2019.3.22)

2件のコメント

  1. ラバン船長さん
    こんにちわ^^
    島尾敏雄の作品はまだ読んだことはありませんが、たしか私の書棚にあったと思います
    この記事の中のストーリーは夢のなかの世界のような雰囲気もありますね…
    この時代を生き抜いた人たちは多かれ少なかれ癒されることのない複雑な心の傷を残していると思われます
    私は広島の出身ですから、あの原爆の地獄以上の惨禍のなかを戦後に生き延びた被災者たちの心境は私の想像を超えるものがあったと現在でも考えています…
    それにしてもラバン船長さんは多くの本を読んで居られるのですね
    これまでどれくらいの本を読まれましたか?

    1. yahan さん
      こんばんは。
      コメントありがとうございます。
      島尾敏雄は
      他の戦争文学の作家とは異なる視点で
      戦争を見つめているという点で
      私は関心を持っています。
      戦争を経験していない私たちは、
      書物から戦争を疑似体験し、
      感覚を磨いていかなくては
      ならないのだと思っています。

      なお、私はそんなに多くの本を
      読んでいるわけではありません。
      昨年1年間で130冊くらいでした。
      実は書斎にはまだ読んでいない本が
      300冊くらいあります。
      本は増えていく一方です。

      ここしばらくは
      yahooブログの記事を焼き直しながら
      現在このサイトを構築していく予定です。
      よろしくお願いします。

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