自分の中の少年が目覚めたような感覚
「地獄の才能」(眉村卓)角川文庫
中学一年生の俊治のクラスに
やってきた編入生・富士見は、
学習に、スポーツに、
超人的な能力を発揮し、
全校の人気を集める。
やがて俊治の同級生の明子も
数日間の欠席の後、
同じような能力を発揮する。
二人はある研究所に…。
ある日突然異様に
優れた能力を発揮する…。
「ねらわれた学園」と
同じシチュエーションの本作品、
眉村卓の傑作SFジュヴナイルです。
子どもの頃に熱中して
読んだ記憶があります。
手に汗握る展開もさることながら、
いろいろなことを
考えさせられたからです。
たしか次のようなことを
考えた記憶があります。
一つは学習の意義についてです。
以上能力を身に付けた少年少女たちは、
他の人間を支配する側に回ります。
「勉強のできる者」が
「勉強のできない者」を支配する。
そうした構図が、実際の社会にも
ありそうな気がしたのです。
もしかしたら自分は「支配される側」に
将来なるのではないか?
それはいやだ、と。
もう一つは代償の大きさについてです。
わずか二週間で
能力を手に入れた代償は、
洗脳による精神支配です。
人格をゆがめられ、
異星人の手先になっていたのです。
苦労せず得たものには
それなりの代償があることを、
子どもながらに感じたことを
覚えています。
私が中学生の頃は、
そうした学力を上げるための
高価な機械がまことしやかに
通信販売で売られていました。
寝ている間に暗記できる「睡眠学習枕」、
右手を置いただけで
「集中力が高まる機械」
(名前は忘れましたが)、等々。
そうしたものにも巧妙な仕掛けがあり、
使った者は次第に
異星人に操られるのではないかと
疑ったものです。
そしてもう一つは、
支配と被支配の関係についてです。
作品の中で俊治は、
人間が他の生物を支配している以上、
人間を越えた存在が現れたとき、
人間がそれらに支配されるのは
仕方がないのだ、という
洗脳をされかけます。
その論理は間違っている、
しかしそれをうまく説明できない
もどかしさを感じたことを
思い出しました。
40年ぶりくらいに再読し、
その当時の感覚がよみがえりました。
SFジュヴナイル、
なかなか捨てたものではありません。
自分の中の少年が
目覚めたような感覚を味わえます。
※本作品は1975年に秋元文庫、
1980に角川文庫から
相次いで出版され、
長い間絶版の後、
2009年にぶんか社文庫から
再出版されましたが、
こちらも現在絶版中です。
※本作品と「ねらわれた学園」を
原作として、1977年には
NHK少年ドラマシリーズ
「未来からの挑戦」が創られました。
わくわくしながら
見た記憶があります。
(2019.4.20)