本作品の奥にある作者ドストエフスキーの「心」
「正直な泥棒」
(ドストエフスキー/小沼文彦訳)
(「百年文庫006 心」)ポプラ社
酒場で出会った酔っ払い・
イェメリアンにつきまとわれ、
引っ越したアスターフィイ。
でもイェメリアンは
転居先を探し出し、
そのまま居ついてしまう。
仕方なく置いてやるものの、
ある日、値打ち物のズボンが
一着紛失する…。
実は私、
ドストエフスキーは苦手な作家で、
あまり読んでいません。
先日ようやく「カラマーゾフの兄弟」を
読みました。それ以外は
「貧しき人々」を読んだだけです。
「貧しき人々」もそうですが、
本作品も貧しい人たちの物語です。
イェメリアンは
仕事も棲み家もない男。
今でいうホームレスという
ところでしょうか。
彼を同居させるアスターフィイも
その日の食物に事欠く始末。
貧しい者が貧しい者を
支えているのです。
筋書きは単純です。
一度は喧嘩別れする二人ですが、
再びアスターフィイを頼って
戻ってくるイェメリアン。
しかし彼は高熱を発し、
戻らぬ人となる。
今際の際に発した言葉は
「ズボンですがね…例のあの…
あれはあのとき
わたしが取ったんですよ」
だから「正直な泥棒」なのです。
貧しさゆえに死に至るのですから、
考えてみれば悲惨な話です。
でも悲壮感は一切なく、
むしろ滑稽ですらあります。
一つは、
登場人物に過去を語らせる手法です。
「わたし」と同居している
アスターフィイが語る物語であり、
「入れ子構造」になっているのです。
そのためストーリーが
一つ奥に引っ込んだような印象となり、
切実感が薄まっているのです。
もう一つは、独特の会話文です。
会話の中になぜか必ず
相手のフルネームが入ります。
「どうしたんだね、
イェメリヤーヌシカ?」
「いえなに、わたしはその…
アスターフィイ・イワーヌイッチ」
万事この調子です。
とくにイェメリアンの方は、
イェメリヤーヌシカ、
イェメーリャ、
イェメリアン・イリッチと
さまざま出てきます。
(これがロシア文学を理解する上での
最大の難しさなのですが。)
深刻な会話であっても、
何か和んだ雰囲気に
変わってしまうのです。
語り手を「わたし」以外にした上で、
ユーモアの衣を纏わせなければ、
市井の人々の困窮した生活を
訴えるなどということは、
当時のロシア文壇で
発表することの出来なかった
主題だったのかも知れません。
ストレートにすべてを
表現した作品がある一方で、
言いたいことを
とことん隠し通した作品も
文学には存在します。
本作品は明らかに後者です。
現代日本の私たちは、
本作品の奥にある
作者ドストエフスキーの「心」を
読み取らなければ
ならないのだと思います。
(2019.5.9)