「坑夫」(夏目漱石)①

作品の深奥部分に盛り込まれた漱石の生命観・倫理観

「坑夫」(夏目漱石)新潮文庫

良家の子息でありながら、
2人の女性との間で
問題を起こした
19歳の「自分」は、
自滅しようと家を飛び出し、
誘われるがままに
銅山へと向かう。
そこには異様な風体で
「自分」を悪し様に罵る
坑夫たちがいた…。

漱石の小説の中で
最も顧みられることのない
作品かも知れません。
解説によると、
漱石のもとを訪れた青年が話した
身の上話を素材としたとのこと。
そのため筋書きらしいものがなく、
ルポルタージュともとれる
特殊な構造です。

しかし、再読すると、本作品は単なる
ルポルタージュなどではありません。
漱石は本作品創作にあたり、
青年の話はあくまでも
表面素材として扱い、
その深奥部分に
自身の生命観・倫理観を
盛り込んだのではないかと考えます。

その理由の一つは、
作品全体の4割にあたる部分が
銅山到着までの道程に、
残りのほとんどが
到着翌日の坑道見学に
割かれていること。
鉱山労働の悲惨さを訴えるなら、
このような構成には
成り得ないはずです。

もう一つは
「自分」の起こした女性問題が、
漱石の前作「虞美人草」から
繋がっているものであること。
詳しくは書かれていません。
「自分」は澄江・艶子なる2人の女性と
問題を起こしたとあるのみです。
これは「虞美人草」での秀才小野が、
我儘で美しい女藤尾と
奥ゆかしい娘小夜子の間で行った
打算的な選択を想起させます。

「虞美人草」では
女性の側に悲劇が起きましたが、
女性が賢く立ち回り、男性が破滅し、
逃げ出さざるを得ない場合、
このような道筋が考えられます、
という漱石の
思考実験のような気がしてなりません。

そして銅山までの道程と
坑道見学の終末まで描かれているのは、
「自分」の心の動きなのです。
死ぬことと生きること、
沈むことと進むこと、
自暴自棄になることと
自尊心を思い出すこと、
それらの中で、「自分」の心は
振り子のように揺れ続けます。

「自分」は坑道見学の終末で道に迷い、
学問を修めた坑夫・安と出会います。
「自分がその時この坑夫の言葉を聞いて、
 第一に驚いたのは、
 彼の教育である。
 教育から生ずる、
 上品な感情である。
 見識である。
 熱誠である。」

坑夫・安の知性に出会い、
「自分」の知性も目覚めるのです。

漱石の異色作、
読書週間の終盤の今こそ
読んでみてはいかがでしょうか。

(2019.11.7)

【青空文庫】
「坑夫」(夏目漱石)

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