「行人」(夏目漱石)

本作品を読み解くのは、現代では難しい

「行人」(夏目漱石)新潮文庫

学問だけを
生きがいとしている一郎は、
妻に理解されず、
親族からも敬遠されている。
我を棄てることができず
孤独に苦しむ彼は、
愛する妻が弟の二郎に
惚れているのではと疑い
弟に自分の妻と一晩よそで
泊まってくれとまで頼むが…。

二郎が語り手となっているのですが、
本作品の主題は一郎の苦悩であり、
主人公は一郎であるといえるでしょう。
その一郎ですが、
自分の妻を信じられず、
父親も信じられず、
弟の次郎も信じられず、
しまいには自分をも
信じられなくなるのです。
今、若い人たちが本作品を読んだとき、
どのような感想を持つのでしょうか。

人と素直に接することができない、
明るい人の輪の中に
入っていくことができない、
他人の気持ちがわからない…。
現代はそんな人たちが
増えてきています。
もしかしたら、現代だからこそ、
自分を一郎に重ね合わせ、
共感する人が
多いのではないかと思うのです。

でも一郎は、
単なるつきあい下手ではなく、
内向的なのでもなく、
ましてや発達障害でもないのです。
作品中の一郎が
抜け出してくることが可能であれば、
そうした現代人の安易な共感を
激しく拒絶するはずです。

朝日新聞へ本作品の連載が
開始されたのは大正元年。
慶応三年に生まれ、
明治=近代という時代を
生ききった漱石が、
本作品で表したかったことの
本質を考えてみる必要があります。

開国以来、嵐のような勢いで
旧来の価値観を薙ぎ倒しながら
進行した「近代」。
その荒波を最も直接的に
全身で受け止めざるをえなかったのは
「知識人」たちだったはずです。
なぜなら、
西洋から押し寄せてくる「学問」にこそ、
自由や平等、民主主義など、
それまで日本になかった価値観が
漲っていたからです。
一郎もまた学問の追究に明け暮れ、
そうした近代的自我の確立を
最も強く意識していたと考えられます。

しかし同時に
一郎は旧家の長男であり、
個人として振る舞うことが
できない立場なのです。
長男として「家」に所属し、
やがては家長として
家族を養わなくてはならない。
「家」という集団に強く縛られながら、
同時に心は「個」としての自立を求める。
必然的に明治の知識人は、心の孤独と
一人で向き合わなければ
ならなかったはずです。

一郎はいわば、
作者漱石が己の内面と向き合い、
それを投影した姿であると
考えられます。
一郎の苦悩は
そのまま漱石の心痛であり、
現代の私たちは
その漱石の孤高な精神を
読み解かなくてはならないのです。

表面上「一郎」的な人間の増えた現代、
本作品を味わうことが
一層難しくなっていると感じます。

(2019.12.9)

みるてぃあさんによる写真ACからの写真

【青空文庫】
「行人」(夏目漱石)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA