「ピラニア」(堀江敏幸)

驚くほど何も起きないのです。

「ピラニア」(堀江敏幸)
(「日本文学100年の名作第9巻」)
 新潮文庫

「日本文学100年の名作第9巻」新潮文庫

「ピラニア」(堀江敏幸)
(「雪沼とその周辺」)新潮文庫

「雪沼とその周辺」新潮文庫

信用金庫に勤める相良さんは、
二十年来つきあいのある
安田さんの経営する中華料理店で
食事をしている。
安田さんの妻の聡子さんが、
相良さんのシャツについていた、
麺のつゆのような染みに
気が付く。
彼は麺を食べないはず…。

かつて中学生に将来の夢を尋ねると、
「○○○の選手になって世界一になる」
「□□□になって社長になる」という
回答が少なからず
返ってきたものでした。
今はそんな答えはとんと少なくなり、
「安定している職業」
「きちんと休める職業」が
大勢を占めつつあります。
世知辛い現代ですから、
努力の末に成功を勝ち取る
サクセスストーリーは
流行らないのかも知れません。
堀江敏幸の書いた本作品も、
そうした成功物語とは無縁です。

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今日のオススメ!

「彼は麺を食べないはず…。」と
書きましたが、
何かミステリのような謎解きが
潜んでいるわけではありません。
語られるのは染みのついた顛末と、
安田さんの中華料理店経営に関わる
これまでのいきさつであり、
特に珍しいものなどありません。
驚くほど何も起きないのです。
「ピラニア」という獰猛な魚の名前を
タイトルに冠しているとは
思えないほど、淡々とした作品なのです。
「現代作家の書く作品も
ここまできたか」という
感じがしました。
この淡泊な作品の味わうべき点は、
登場人物三人の生き方なのでしょう。

まず相良さんです。
信用金庫勤務でありながら、
かなりゆるめの仕事ぶりです。
貸し付けも取り立ても、
顧客の立場に立って
押しつけも厳しさもありません。
それなりの年齢になっているにも
かかわらず、
外回りを率先して行っています。
シャツの染みも、原因は
顧客の老人に勧められるがままに
蕎麦を食べ、
相手のつゆが跳ね飛んだものなのです。
彼はまったくそれを気にしていません。

次に安田さんです。
中華料理に関して厳しい修行を
積んだわけではありません。
特別な才能が
あったわけでもありません。
ただ何となく
毎日を過ごしてきただけなのです。
だから大繁盛もしていません。
それでもいろいろな人から
飽きられずに続けられていることで
十分に満足しているのです。

そして聡子さん。
彼女は再婚ですが、
安田さんと劇的な出会いが
あったわけではありません。
淡々とした安田さん同様、
静かで穏やかな
愛情の末の結婚でしょう。

さて、終末で
ようやくピラニアが登場します。
「また大きくなりましたね。
 なにか育てる
 コツでもあるんですか。」
「特別なことは
 なにもやってませんよ」

おそらくピラニアは
「特別なことはしない」三人の生き方を
象徴するものなのでしょう。
だとすると、そうした生き方こそ、
ピラニアのようなたくましさを内側に
秘めているということでしょうか。

大成功しなくてもいいのだと、
何事もない
日常の繰り返しでもいいのだと、
私たちに語りかけてくるような、
温かみのある作品です。
緊張感のある毎日に疲れを感じている
あなたにお薦めの一品です。

〔本書収録作品一覧〕
1994|塩山再訪 辻原登
1995|梅の蕾 吉村昭
1996|ラブ・レター 浅田次郎
1997|年賀状 林真理子
1997|望潮 村田喜代子
1997|初天神 津村節子
1997|さやさや 川上弘美
1998|ホーム・パーティー 新津きよみ
1999|セッちゃん 重松清
1999|アイロンのある風景 村上春樹
2000|田所さん 吉本ばなな
2000| 山本文緒
2001|一角獣 小池真理子
2001|清水夫妻 江國香織
2003|ピラニア 堀江敏幸
2003|散り花 乙川優三郎

(2021.6.6)

anncapicturesによるPixabayからの画像

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