「日本文学100年の名作第9巻 アイロンのある風景」

世紀末から21世紀への転換点、進化する日本文学

「日本文学100年の名作第9巻
   アイロンのある風景」新潮文庫

「日本文学100年の名作第9巻」新潮文庫

「アイロンのある風景 村上春樹」
二月の深夜、三宅から
焚き火に誘われた順子は、
恋人・啓介とともに
海岸へ向かう。
三宅は焚き火が好きで
この海岸の町に
住み着いた男だった。
焚き火を見ながら、
順子はいつも
ジャック・ロンドンの
「たき火」のことを
考えるのだった…。

日本文学100年の名作第9巻は、
1994年から2003年までの10年間の
名作16篇が集められています。
この10年間は、
世紀末から21世紀への転換点です。
世相を反映したような作品も
数多く見受けられます。
冒頭に掲げた村上春樹の作品は、
直接的な記載はないのですが、
1995年に発生した阪神淡路大震災
心の傷を抱えた人物が登場しています。

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阪神淡路大震災に匹敵するくらいの
衝撃が走ったのは、
1997年の「山一証券破綻」でしょうか。
それ以来、
日本の企業には余裕がなくなり、
活気が失われてしまったような
気がします。
吉本ばななの「田所さん」は、
それ以前の、古き良き昭和の時代の
薫りのする作品です。

「田所さん 吉本ばなな」
田所さんは
きっちりと十時にやってきて、
六時に帰る。
席に座ってコーヒーを飲んだり、
本を読んだり、
誰も電話に出ない時に
電話に出たり、頼まれて
コピーをとったりしている。
やけにお肌がつるりとした
おじいさんだが、多分…。

そしてこのあたりからでしょうか、
「少子高齢化」の危機が叫ばれ、
人々が「老い」に
関心を持つようになったのは。
津村節子の「初天神」と、
山本文緒の「庭」は、そうした
「老い」の生き方に触れている作品です。

「初天神 津村節子」
父の他界により
介護から解放された幸世は、
友人・智子とともに
京都へのツアー旅行に参加する。
早くに母が亡くなった幸代は、
父の世話のために
婚期を逃していた。幸世は
ツアーに単独で参加している
七十くらいの女性が気になり…。

「庭 山本文緒」
母親が急逝し、
家に残されたのは「私」と、
無骨な父と、
母が愛した「庭」だった。
父と二人の生活が
板につき始めたある日、
母宛の封書が届く。
それは母が楽しみにしていた、
イギリスへの
ガーデニング講座ツアーの
申込書だった…。

さらに、
「いじめ」の問題が深刻化してきたのも
このあたりからだったような
気がします。
その「いじめ」を素材とした作品が
重松清の「セッちゃん」です。
ただし「いじめ」は単なる素材であり、
必ずしも実態を反映したものでは
ないことに注意が必要でしょう。

「セッちゃん 重松清」
雄介と和美の娘・加奈子は、
セッちゃんの話をし始める。
どうやらその子は
学校でいじめられているらしい。
運動会のダンスの振り付けが
変わったことを、みんなから
教えられていないのだという。
雄介と和美が
運動会で見たものは…。

「いじめ」にも通じることですが、
この時代は社会に閉塞感が
漂い始めた時期でもあります。
若者に覆い被さるような、
漠然とした閉塞感を描いたのが
江國香織の「清水夫妻」です。

「清水夫妻 江國香織」
飼い猫が縁で、
「私」は清水夫妻と親しくなる。
この夫妻の唯一共通の趣味は、
見ず知らずの人の
葬式に行くことだった。
夫妻はこう語る。
「人間はみんな、
そこに向かって生きている」、
そして、
「すべてがそこで
解放されるわけです」…。

さて、短編小説もさらにさまざまな形が
登場するようになりました。
純文学よりも大衆小説、
その中でもミステリが
幅をきかせてきたように思います。
それも殺人事件など起きない、
ライト・ミステリ、
ライト・サスペンスといった、
新感覚の短篇が本書でも目立ちます。
辻原登の「塩山再訪」は、知らぬ間に
サスペンスの世界に迷い込んだような
錯覚をおぼえる作品です。
林真理子の「年賀状」は
正月早々に運命が暗転する
ミステリ・タッチの技ありの一篇です。
新津きよみの「ホーム・パーティー」は、
まさにホーム・ミステリとでも呼ぶべき
身近に潜んでいそうな恐怖を
描いています。

「塩山再訪 辻原登」
恋人の有子を連れて故郷の塩山に
三十年ぶりに
戻った「私」だったが、
有子は不機嫌な顔をする。
二人が入った小さなバーの
バーテンダーの男は、
同級生の堀だった。
堀は「私」を覚えていた。
「私」は何かが記憶の底で
動くのを感じる…。

「年賀状 林真理子」
男としての自分の魅力に
自信を持っている葛西には、
一つの苦渋の思い出があった。
つい手を出してしまった同僚・
香織と別れるのに
手こずったのだ。
香織から届く年賀状に
ひやりとする葛西。
それから三年目となる年賀状が
届くが…。

「ホーム・パーティー 新津きよみ」
ホーム・パーティー好きの
夫とともに、容子は今日の準備に
勤しみながら心を弾ませる。
今日は直樹・聡美夫妻が
来るからだ。
楽器を演奏し、絵も描く直樹の
「指」を求め、容子は自ら
彼を誘って関係をつくっていた。
しかしその席上で…。

新感覚の短篇といえば、
次の2篇も素敵です。
川上弘美の「さやさや」は
大人のファンタジーというべき
幻想的な作品です。
小池真理子の「一角獣」は
ダーク・ファンタジーといった
ところでしょうか。

「さやさや 川上弘美」
蝦蛄を食べに行った
メザキさんと「私」。
徳利を何本か空にして
二人は店を出る。
ゆらゆらと並んで歩く夜道。
「歩きましょうか。
何もないですね。
言いながら、メザキさんは
店に来たときと同じように、
腰を揺らして半歩先をゆく」…。

「一角獣 小池真理子」
成り行き任せのように、
男に身を任せてきた「女」は、
ある版画家の家政婦となる。
版画家は、
無口でぶっきらぼうな男だった。
シロという
気難しい猫を飼っていた。
「女」と版画家と猫の生活が
安定しかけたとき、
版画家は銃で頭を…。

世相を反映した作品、
そして新感覚の作品を紹介しましたが、
小説の変わらぬ良さを保ち続けた短篇も
しっかりと編み込まれています。
吉村昭の「梅の蕾」は短篇ながら、
終末の感動の大きさに
何度読み返しても涙が止まりません。
新田次郎の「ラブ・レター」も
「泣きのツボ」を
しっかり押さえた作品です。
乙川優三郎の「散り花」は
本書唯一の時代物ですが、
現代的な要素と感覚を盛り込んだ上で、
上手に泣かせてくれます。

「梅の蕾 吉村昭」
三陸海岸の僻村へ
千葉県がんセンターに勤める
エリート医師・堂前が
一家を挙げて
赴任することになる。
当初は反対していた堂前の妻も、
転居後は村の女性たちと
山歩きを楽しむようになる。
しかし、彼女は
不治の病に冒されていた…。

「ラブ・レター 浅田次郎」
歌舞伎町の
裏ビデオ店店長・吾郎は、
警察での拘留を解かれたあと、
「女房」が死んだと告げられる。
それは本当の妻ではなく、
ヤクザから偽装結婚を依頼された
中国人売春婦・
白蘭のことだった。
彼女からの手紙を読んだ吾郎は
なぜか…。

「散り花 乙川優三郎」
漁師の父が亡くなり、
一家六人を支えなければ
ならなくなった十四歳のすが。
懸命に働くものの、
海女の仕事では
生計が成り立たず、
「いなさ屋」を紹介される。
いなさ屋の主人・孝助は、
若いすがに身売りの話を
切り出すのをためらう…。

「何も起きない」穏やかな純文学作品も
このあたりから
目立つようになりました。
堀江敏幸の「ピラニア」は、
その表題の凶暴性とは裏腹に、
筋書きはまったく無風で
穏やかなのですが、その中で
「現代の生き方」を静かに問いかけてくる
作品です。

「ピラニア 堀江敏幸」
信用金庫に勤める相良さんは、
二十年来つきあいのある
安田さんの経営する中華料理店で
食事をしている。
安田さんの妻の聡子さんが、
相良さんのシャツについていた、
麺のつゆのような染みに
気が付く。
彼は麺を食べないはず…。

最後は私が最も気に入った作品、
村田喜代子の「望潮」です。
前半はどことなく「ホラー的」色彩が
漂っていたのですが、
最後は「人の生き方の気高さ」を
考えざるを得ない
見事な構成の作品です。
小説を読む面白さを満喫させてくれる、
極上の逸品です。

「望潮 村田喜代子」
喜寿の祝いと
忘年会を兼ねた集まりで、
古海先生はかつて訪れた
簑島の話を始める。そこでは
腰の曲がった老婆が多数、
「当たり屋」として車道を
徘徊しているのだという。
それを確かめようとして
「わたし」は
簑島観光をしてみたが…。

その前の10年間
(第8巻:1984ー1993)について、
「日本文学は内省の時代を迎えた」と
記しました。
その次の、世紀末と新世紀の
交差した10年間の中で、
こんなにも魅力的な日本文学が
生まれていたのかと
ただただ驚くばかりです。
日本文学はたゆみなく
進化しているのです。
そしてそれは現在まで続いています。
日本文学をじっくりと味わいましょう。

〔自身を振り返って〕
あの当時、どうしてこうした
超一級の小説たちに
気付かなかったのか?
振り返ってみるとその10年間、
私は27歳から36歳、
結婚もして子どもも生まれ、
仕事にも熱中していた時期でした。
忙しくて読書どころではなかったのが
悔やまれます。

〔本書収録作品一覧〕
1994|塩山再訪 辻原登
1995|梅の蕾 吉村昭
1996|ラブ・レター 浅田次郎
1997|年賀状 林真理子
1997|望潮 村田喜代子
1997|初天神 津村節子
1997|さやさや 川上弘美
1998|ホーム・パーティー 新津きよみ
1999|セッちゃん 重松清
1999|アイロンのある風景 村上春樹
2000|田所さん 吉本ばなな
2000| 山本文緒
2001|一角獣 小池真理子
2001|清水夫妻 江國香織
2003|ピラニア 堀江敏幸
2003|散り花 乙川優三郎

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Brian MerrillによるPixabayからの画像

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