「詩人のわかれ」(谷崎潤一郎)

夜の東京の闊歩から、最後は神々しいメルヘンへ

「詩人のわかれ」(谷崎潤一郎)
(「潤一郎ラビリンスⅢ」)中公文庫

「潤一郎ラビリンスⅢ」中公文庫

此の頃の出来事なのです。
三月初めの、
或る日の朝のことでした。
Aと云う歌人と、
Bと云う戯曲家と、
Cと云う小説家と、
三人の男が何か頻りに面白そうに
冗談を云いながら、
山谷の電車停留場附近を、
線路に添うて
ぶらりぶらりと…。

谷崎潤一郎の作品は、
純文学もあれば娯楽作品もあり、
ミステリがあるかと思えば
ファンタジーもあり、
異国情緒溢れる作品もあれば
歴史小説もあり、
芸の幅が広いのが特徴でしょう。
では本作品は
どんなジャンルに属するか?
まったくわかりません。

〔主要登場人物〕
A
…歌人。かつても、そして此の頃も、
 放蕩生活を謳歌している。
B
…戯曲家。かつては放蕩していたが、
 父親の死後、慎んでいる。
C
…小説家。かつては放蕩していたが、
 結婚後、糖尿病もあり、慎んでいる。
F
…詩人。A、B、Cと交際があったが、
 近年疎遠になっていた。

そもそも筋書きというほどのものは
ありません。
近年おたがいに縁遠くなった
ABCの三人が、
「此の頃」再び意気投合して
夜の街を渡り歩いた末に、
Fを訪問し、
一緒に酒を飲むというだけの話です。
本書に収録された本編の冒頭に、
昭和22年に書かれた
谷崎自身のエッセイの一節が掲載され、
そこに「作品として
何程の価値があるかを知らない」と
記されているのですが、なるほど、
何を表現しようとしているのか
わかりません。
わからないながら、
やはり谷崎特有の味わいを有した
作品なのです。

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本作品の味わいどころ①
谷崎特異の赤裸々な自己の開陳

そのエッセイの一節には、
人物Cは谷崎自身がモデルであり、
しかも「結局のところこれは
小説には違いないが、
初めの方の大部分は
事実をそのまま書いたもの」であると
述べられています。
本作品は大正6年発表であり、
「此の頃の出来事」について
描かれているとすれば、
Cなる人物は、大正6年の
谷崎そのものということになるのです。

当時の谷崎はかなりの食いしん坊です。
「来がけにライスカレを食って」、
AB二人分の「むつの子とあい鴨」、
そして「赤貝に幕の内」を食しておいて、
その翌朝「何かうまい物が食いたいな」と
舌なめずりしているのですから、
大食漢としかいいようがありません。
糖尿病になるのも無理のないことです。

さらに「四五年前、
三人がまだ二十四五歳」のときの様子も
書かれてあるのですが、
なかなかに豪放磊落な生活です。
「殆ど毎日」
「東京中のカフェエを飲み歩き」
「遊離に出没し」ながら、
文壇の機関誌に「筆を揃えて
花々しく打って出」たのですから
見事です。
丹念に読み込むと、
二十代の谷崎の行動様式と
思考パターンが見えてくるから
楽しいのです。

本作品の味わいどころ②
見えてくる大正期の文壇の交友

見えてくるのは谷崎自身ばかりでなく、
当時の文壇の交友についても同じです。
エッセイの一節では、
さらに人物Aのモデルが吉井勇、
Bは長田秀雄であることが
明かされています。
この三人がいつもつるんで
東京の夜を遊び回っていたのです。
それもそのはず、
吉井と谷崎は1886年生まれ、
長田は1885年生まれであり、
年齢がほぼ一緒です。

なお、吉井勇は
人物Aそのままに歌人であり、
北原白秋らと耽美派の拠点となる
「パンの会」を結成、活躍した人物です。
後には、森鷗外を中心として創刊した
「スバル」の編集に、
同年齢の石川啄木とともに取り組み、
啄木との交友を深めています。

またBのモデル・長田秀雄は
詩人からスタートし、
パンの会にも参加していました。
その後、最初の戯曲「歓楽の鬼」が
自由劇場で上演され、
劇作家として活躍、
新劇運動に加わっていきます。

それぞれの人物をさらに調べていくと、
当時の文壇の交友関係の広さが
見えてくるのです。
本作品は、その入り口となり得る
短篇小説なのです。

本作品の味わいどころ③
突然現れる北原白秋の見た幻想

このように、リアルな姿を
公開し続けた本作品ですが、
終末部分だけは
ファンタジーとなっているのです。
ABCの三人が訪問する人物Fとは、
なんと詩人・北原白秋。
彼も1885年生まれであり、
まったく同年代なのです。

ABCと別れたFは、家路を見失い、
とある雑木林で野宿します。
昏々と眠っている
Fの枕元に現れたのは
「七頭の蛇アナタに乗った
妖麗なヴィシュヌの神」。
飲んだくれたABCが
夜の東京を闊歩する場面から始まった
本作品は、
神々しいメルヘンをもって
幕を閉じるのです。
いったい何が起きているのか?
説明するのは困難です。
ここはぜひ読んで
確かめていただきたいと思います。

という、
作者でさえ理解困難な本作品は、
常人の想像を超える規模まで
変化するのです。
読書の秋にふさわしい一篇であると
考えます。
ぜひご賞味ください。

〔「潤一郎ラビリンスⅢ」〕
The After of Two Watches
神童
詩人のわかれ
異端者の悲しみ

〔関連記事:潤一郎ラビリンス〕

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