「夜の木の下で」(湯本香樹実)

新しい湯本香樹実を味わってください

「夜の木の下で」
(湯本香樹実)新潮文庫

弟が事故に遭い、
意識不明のまま入院した。
「私」は弟がその日、
帰り道の公園で
缶酎ハイを飲んでいたことを知る。
その公園のベンチに
腰掛けた「私」は、昨年の夏、
自分が車にはねられた可能性が
あったことを思い出す…。

湯本香樹実の短編集です。
6篇の作品が収録されています。
文庫本には作品の詳しい情報は
載せられていませんが、
おそらくいくつかの時期に書かれた
小品をまとめたものであり、
一つの明確なテーマを持って
編まれたものではないのではないかと
思われます。
もし、この6篇を
貫くものがあるとすれば
「喪失」でしょうか(もっともそれは
湯本作品のほぼすべてに
共通しそうですが)。
それも「痛みを伴う喪失」と
いえるかも知れません。

表題作である「夜の木の下で」の姉弟は、
すでにいろいろなものを
失っていました。
家を顧みない父親を失い、
精神に破綻を来した母親を失い、
幼い日には拾ってきた子猫を失い…。
姉である「私」と「弟の意識」は、
共通した思い出である
「子猫を捨てざるを得なかった過去」に
辿り着きます。
「ずっと手探りしていた。
 そこにあるかどうか
 わからないものを、あると信じて。
 永遠に揺るがない関係とか、
 追い続けることのできる目標とか。」

「私」は明確な解答を
見つけたわけではありません。
しかし、最後に弟の意識の
回復をうかがわせる場面で、
物語は幕を閉じます。

湯本香樹実らしい「救い」のあるのは
本作品だけで、
残りの5篇はこれまでの湯本作品とは
やや趣を異にしています。

「緑の洞窟」では、
幼い頃に双子の弟を失った「私」が、
父親の葬儀を終え、
住居のあるカナダへと帰ろうとする
顛末を描いています。そこに
「救い」や「再生」は見られません。
「私」の心にあいた
空隙の大きさだけが目立ちます。

「焼却炉」では、
高校時代の友人の葬儀で
仲のよかった同級生・カナと
再会した「私」が、微妙な距離感を
感じる心情が描かれています。
夢を叶えられなかったカナと
夢を叶えつつある「私」との
埋めがたい溝が印象的です。
女性の生理が題材となっている点、
男の私には理解の難しい領域でした。

「リターン・マッチ」にいたっては、
まったく「救い」がありません。
いじめを自分なりに克服しようとする
少年が描かれているのですが、
結末は惨憺たるものです。
湯本がなぜこのような
痛々しい作品を書いたのか
私にはわかりませんでした。

「私のサドル」では、
「私」に話しかけてくるサドルを持つ
自転車を失います。
こちらは新しい彼氏を
得るのですから、「喪失」の度合いは
小さいかも知れません。
なお、湯本作品には珍しい、
仄かなエロスの香る作品です。

「マジック・フルート」では、
中学生の「僕」が心を病んだ中年女性に
恋心(といえないかも知れないもの)を
抱きます。
その女性の自立によって、
「僕」はやはり何かを
失っていたのでしょう。
緩やかな「喪失」です。

「夏の庭」をはじめとした諸作品とは
肌合いの異なる作品群です。
新しい湯本香樹実を味わってください。

(2019.8.28)

Michele Caballero Siamitras KassubeによるPixabayからの画像

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