「呪はれた戯曲」(谷崎潤一郎)

作品自体が「妻譲渡事件」の「劇中劇」か?

「呪はれた戯曲」(谷崎潤一郎)
(「潤一郎ラビリンスⅧ」)中公文庫

「潤一郎ラビリンスⅧ」中公文庫

お前の命と己の命と、
孰方が貴いかと云えば、
己の命の方が貴い。
お前は何の働きも自覚もない
平凡な女だ。
己は此れでも
才能のある藝術家だ。
孰方か一人の命を
失つて濟む事なら、
お前の命の失われるのが正当だ。
それが当然の…。

現代の世の中で
このようなことを呟くならば、
周囲から大バッシングを受けること
間違いなしです。
谷崎潤一郎の犯罪小説の傑作
「呪はれた戯曲」の一節です。
「犯罪小説集」の副題のついた
「潤一郎ラビリンスⅧ」に
収録されているのも当然、
妻殺しの犯罪が
下敷きとなっているのです。
しかし殺人事件そのものは描かれず、
犯罪者の心理に焦点をあてた
作品となっています。

〔登場人物〕
佐々木紅華

…芸術家(戯曲家)。愛人ができたため、
 妻を疎ましく感じるようになる。
 妻を殺害後、自殺した。
佐々木玉子
…紅華の妻。貞淑で無邪気な性格。
 夫に殺害された。
襟子
…紅華の愛人。
「私」
…語り手。紅華の知人。
 紅華の最後の戯曲を紹介し、
 紅華の妻殺しの全容を語る。
〔(戯曲「善と悪」の)登場人物〕
井上

…芸術家。モデルは紅華。
 妻を殺害する。
春子
…井上の妻。モデルは玉子。
 殺害される。
照子
…井上の愛人。モデルは襟子。

本作品の味わいどころ①
芸術家の性、むき出しのエゴイズム

冒頭に取り上げた一節が、
殺人事件の動機です。
「芸術家の命の方が重い」だの
「捨てられるお前よりも
捨てる己の方が苦しみが大きい」だの、
屁理屈としか言いようのない台詞が、
次から次へと記されているのです。
まさにむき出しのエゴイズムなのです。

しかしこれは谷崎作品においては
よく見られる思考なのです。
芸術家の性(さが)とでも
いえばいいのでしょうか。
本書に併録された「前科者」の「己」や、
以前取り上げた「鮫人」の服部や、
「襤褸の光」のAなど、
谷崎作品に登場する天才芸術家はみな、
自分が世界の中心だと
思い込んでいるのです。
その際だった個性を発揮する
主人公のむき出しのエゴイズムこそ、
本作品の第一の
味わいどころといえるでしょう。

本作品の味わいどころ②
入れ子構造、演じられる劇中劇中劇

本作品の特徴は、いわゆる
「入れ子構造」の構成にあります。
劇中劇として後半部に挿入される
「善と悪」の戯曲、
それが表題「呪はれた戯曲」の
意味するところとなっているのです。
「善と悪」の井上は紅華を模してあり、
玉子は春子を擬えているのです。
文学において「入れ子構造」は
何も珍しいものではありませんが、
本作品は戯曲「善と悪」の中にも
劇中劇が存在する、
つまり「劇中劇中劇」
(それも登場人物は井上と春子)を
伴った入れ子構造となっているのです。

「劇中劇中劇」で井上が春子を
殺害する場面を描き出し、
それと同じシチュエーションで
「善と悪」の井上が春子を殺害し、
それと同じ状況下で紅華が玉子を
殺害したことが述べられているのです。
「劇中劇中劇」の部分を読んでいると、
「劇中劇」の場面なのか
「劇中劇中劇」の一節なのか、
頭が混乱してくること必定です。
この「呪はれた戯曲」「善と悪」
「劇中劇中劇」の転換の妙こそ、
本作品の第二の
味わいどころと考えられます。

本作品の味わいどころ③
「私」と佐々木、どちらが谷崎自身?

多くの作品の登場人物に、
なにがしかの形で反映されている
谷崎自身の個性。
本作品の場合、「私」と紅華、
どちらが谷崎の分身なのか、
判然としません。
我が儘かつ芸術至上主義的思考の
紅華こそ谷崎の考え方と
重なる部分が大きいのでしょうが、
その紅華を前半部で徹底的に貶めている
「私」のサディスティックな性格にも
谷崎が反映されているとみて
いいでしょう。
「私」と紅華のどちらが
より谷崎の分身といえるか、
それぞれのキャラクターを
どっぷりと体感することこそ、
本作品の最大の
味わいどころとなっているのです。

さて、本作品発表は大正8年(1919年)。
ちょうど小田原事件
(大正9年:谷崎が物静かで貞淑な妻・
千代を離縁し、文壇仲間の佐藤春夫に
譲渡しようとしたものの、
直前になって翻意した一件)の
前年にあたります。

「劇中劇中劇」の夫が
妻を殺害する筋書きの原稿を
見せることによって
「善と悪」の井上は
春子を殺害するにいたるのですが、
もしかしたら本作品「呪はれた戯曲」を
発表し、
千代の目に触れさせることによって
谷崎は離縁を円滑に
進めようとしたのではないかという
疑念さえ生じさせます。

本作品自体が
「谷崎潤一郎・妻譲渡事件」の
「劇中劇」であり、だとすれば
井上の春子殺しは
「劇中劇中劇中劇」という
マトリョーシカ状入れ子構造と
なっているといえます。
犯罪小説という枠組みでは括りきれない
なんともはや複雑な作品です。
ぜひご賞味ください。

(2024.5.9)

〔「潤一郎ラビリンスⅧ」〕
前科者
柳湯の事件
呪はれた戯曲
途上

或る調書の一節―対話
或る罪の動機

〔関連記事:谷崎潤一郎作品〕

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