「私」(谷崎潤一郎)

谷崎作品を味わうなら、毒まで

「私」(谷崎潤一郎)
(「潤一郎ラビリンスⅧ」)中公文庫

「潤一郎ラビリンスⅧ」中公文庫

「私」と同室の学生三人は、
寮での盗難を話題にしていた。
犯人は下り藤の紋付きの
羽織を着ていた。
平田は当事者からの話を
紹介しながら
「私」の顔色を窺った。
どうやら平田は
「私」を疑っているらしい。
私の家紋も下り藤なのだが…。

平田は明らかに「私」を疑っていて、
態度に表しているのです。
それに対して「私」は、
「相手がいかに自分を軽蔑しようと、
 自分で自分を信じて居れば
 それでいいのだ、
 少しも相手を恨むことはない」
「平田が僕を理解してくれないのは
 已むを得ないが、僕の方では
 平田の美点を認めて居るよ」

友情のあり方を問うような
主題なのかと思いながら読み進めると、
完璧に裏切られます。
谷崎潤一郎の作品ですから。
では、友情物語でなければ何なのか?

〔主要登場人物〕
「私」
…語り手。奨学資金で在学している
 貧乏学生。S県の水呑百姓の倅。
平田
…頑丈で男性的な肉体の学生。
 「私」を嫌っていて、盗難事件の犯人は
 「私」だと疑っている。「私」と同室。
樋口
…裕福な家庭に育った学生。
 「私」と同室。
中村
…「私」と同室の学生。

本作品の味わいどころ①
谷崎得意の読み手を欺く展開

ネタバレになってしまうのですが、
本作品は犯罪小説、
つまりはミステリです。
本書のサブタイトルは「犯罪小説集」。
寮内連続盗難事件の犯人は誰か?
途中まで犯人と同じ紋付きを
持っているために疑われた「私」の、
冤罪を晴らすドラマかと思えば、
どんでん返しが待っているのです。
平田の罠に、
見事にはまるのが「私」なのです。
味わいどころの一つめは、
この読み手を欺く斬新な展開なのです。

語り手が犯人だった。
今となってはそうした展開のミステリは
少なくありません。
しかし本作品の発表は大正10年。
谷崎のミステリ自体、日本ミステリの
源流に位置する作品群であり、
「語り手が犯人」という手法は、
もしかしたら日本初の試みだった
可能性があります。

ただし、読み手を欺く手法自体は、
谷崎の常套手段です。
以前取り上げた「美食倶楽部」は、
食欲を刺激する作品と思わせておいて、
その実、性欲をくすぐる作品でした。
「魚の李太白」は、
大人向け童話のように見せかけて、
実は作家・佐藤春夫との
文学的じゃれ合いのような作品でした。
「白晝鬼語」は乱歩的猟奇ミステリの衣を
纏っているものの、最後の5頁で
コントへと転落していきます。

本作品の味わいどころ②
谷崎自身が自らの暗部を提示

で、ミステリかといえば、
それだけではないのです。
味わいどころの二つめは、
「私」という人物そのものなのです。
「自分は悪人であり、
それは変えることの
できないものである。
変えることができないのだから
仕方ない」という、
ある意味「犯罪者の開き直り」ともいえる
人物設定が「私」の特徴なのです。

この「私」の、「開きなおった
犯罪者」的キャラクターもまた、
谷崎が頻繁に登場させています。
「前科者」
「己」(天才的芸術家)もしかりであり、
「鮫人」の服部もしかり
(正犯罪者というよりは小悪党)、
「或る調書の一節」の「A」、
「憎念」の「私」もまたしかりなのです。

それは同時に、
谷崎自身の性格でもあるのでしょう。
特に「憎念」は谷崎の
自伝的小説ともいわれています。
谷崎は、自身の性格の一端として
存在する「穢いもの」を、
多種多様なパターンで
歪にデフォルメし、
自作に登場させていったと
考えられます。
自分以外の領域における
「穢いもの」を明るみに出すこと(例えば
社会の構造悪を暴き出すことなど)は、
多くの作家が行っていることです。
しかし、自分自身の心に巣くう
「穢いもの」をわざわざ取りだし、
作品として結晶化させた作家は
谷崎意外には
決して多くはないはずです。

本作品の味わいどころ③
谷崎独特の「犯罪者の心理」論

そして、「私」はその心理を
包み隠さず開陳していきます。
最後の4頁にわたる「私」の述懐
(すべて抜き書きしたいくらいです)は、
まさに反省しない
「犯罪者の心理」といえるでしょう。
不快な思いになること請け合いですが、
そこにこそ谷崎文学の味わいが
隠されているのです。
谷崎作品を味わうなら、
そこに含まれている毒素もまた
味わい尽くす必要があるのです。

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さて、本作品をミステリに
カテゴライズしていいものかどうか、
判断に迷います。
第一級のミステリであるとともに、
純文学的要素も存在しているからです。
しかも谷崎は、ミステリの世界には
それ以上足を踏み入れていません。
文学の様々な形を模索している中で
そこにたどり着いたものの、
その先に自身の文学的発展を
見いだせなかったのでしょうか、
他の領域へと転進し、
いくつもの傑作を書き残しています。

いや、
カテゴリなどどうでもいい話です。
谷崎文学を
ありのままに味わいましょう。
本作品をご賞味あれ。

〔本書収録作品一覧〕
前科者
柳湯の事件
呪はれた戯曲
途上

或る調書の一節―対話
或る罪の動機

〔関連:本記事登場の谷崎作品記事〕

(2023.7.6)

sebastian del valによるPixabayからの画像

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