「鼻」(芥川龍之介)①

そこに「傍観者の利己主義」を見いだすのです

「鼻」(芥川龍之介)
(「羅生門・鼻」)新潮文庫

五六寸もの長さの
鼻を持つ禅智内供は、
周囲には気にしないふりを
しつつも苦悩していた。
自尊心が傷つけられて
きたからである。
ある秋、弟子が聞きつけた
鼻を短くする方法を
試してみると、
何と鼻は短くなった。
ところが…。

鼻が短くなってめでたしめでたし、
では終わらない芥川の傑作です。
本作品は今昔物語集から
題材を得ているのですが、
芥川はその筋書きの
順序を変更しています。
今昔物語集では、
①鼻を短くする方法を試みて、
 いったんは短くなるものの
 二三日たつと元に戻る。
②しかたなく弟子が鼻を
 持ち上げている間に
 内供が食事をとる。
という順序なのです。

今昔物語集では②の終末に、
弟子がくしゃみをした弾みで、
鼻が粥椀の中に落ちてしまうという
オチがついているのですが、
芥川はそれを捨てて順序を変え、
①の部分に仕掛けを施したのです。

鼻が短くなった内供は、
周囲の人間が、鼻が長かった頃よりも
「一層可笑しそうな顔をし」たり、
「じろじろ内供の鼻ばかり
眺めていた」ことに気づきます。
そしてそこに「傍観者の利己主義」を
見いだすのです。

「傍観者の利己主義」。
つまり、弱者が悲劇の中にあるうちは、
そこに同情を感じ、
嘲笑やあざけりを慎むのですが、
いざそれが解消されたとなると、
その慎みを捨て
露骨な攻撃性を表すというものです。
芥川は「世間」というものの本質を、
きわめて正確に見抜いていたのです。
「誰でも他人の不幸に
 同情しない者はない。
 所がその人がその不幸を、
 どうにかして切りぬける事が
 出来ると、今度はこっちで
 何となく物足りないような
 心もちがする。
 少し誇張して云えば、
 もう一度その人を、
 同じ不幸に陥れて見たいような
 気にさえなる。
 そうしていつの間にか、
 消極的ではあるが、
 ある敵意をその人に対して
 抱くような事になる。」

さて、再び鼻が長くなった内供は、
「はればれした心もちが、
どこからともなく
帰って来るのを感じた」のですが、
これは彼自身の内面的成長などでは
ないのでしょう。
「もう誰も哂うものは
ないにちがいない」。つまり、
再び世間の同情に甘えられるという
さもしい心根の露呈と考えるべきです。

徳を積んだ高僧でさえも
世間の呪縛から逃れられない。
世間の恐ろしさと
その中で生きざるを得ない
人間の卑小さが
浮き彫りにされています。
ユーモアが前面に出ている
作品なのですが、
よくよく読み込むと
笑っていられない一面が見えてきます。

(2019.8.31)

naobimによるPixabayからの画像

【青空文庫】
「鼻」(芥川龍之介)

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