「鼻」(芥川龍之介)②

ゴーゴリの「鼻」と芥川の「鼻」

「鼻」(芥川龍之介)
(「羅生門・鼻」)新潮文庫

内供が鼻を持て余した理由は
二つあった。
一つは長さによる不便だったが、
もう一つは
この鼻によって自尊心が
傷つけられることにあった。
内供は長い鼻を
まったく気にしていないように
装っていたが、周囲はそれに
気づいていた…。

前回から引き続きの芥川の「鼻」です。
題材そのものは
今昔物語集から得ていますが、
当然ゴーゴリ「鼻」を、芥川は
意識していたものと考えられます。
当時の日本の作家たちはロシア文学に
強く影響されていたのですから。
それでは両者を
比較してみたいと思います。

まず「鼻」の持ち主。
ゴーゴリのコワリョフは八等官。
役人のほぼ最低階級です。
一方、芥川の禅智内供は
宮中に仕える僧の中でも高位な方です。
両者の立場は全く違います。

続いて「鼻」喪失の状況。
コワリョフは普通の鼻だったのですが、
ある日突然「行方不明」になります。
内供の鼻は若い時分から異様に長く、
五六寸(一寸は約3cmですから
15~18cmの長さになります。
それだけあれば下あごを超えます)
ありました。
それを気に病んでいる内供が
自らの意思で短く
(普通のサイズに)したのです。
なくなったわけではありません。
両者の状況は異なります。

そして「鼻」復活の様子。
コワリョフの鼻はお巡りさんが
見つけて届けてくれました。
医者がくっつけようとしても
くっつかず、
ある朝、突然くっついていたのです。
一方内供は、
当たり前の鼻になったものの、
周囲の視線の変化に気づきます。
短くなったことを恨めしく感じた
ある朝、こちらもやはり突如
もとの長さに戻ります。
コワリョフは
「めでたしめでたし」なのですが、
芥川はそこに含みを持たせています。
必ずしも同じではありません。

同名の両作品、まったく異なる
色合いなのですが、
共通するのは主人公の
器の小ささではないかと思うのです。
コワリョフ、内供、ともに
人間の小ささが強烈に感じられます。
それぞれが独自の手法で
人間の卑小さを
あぶり出したかのようです。
そしてどちらも核心部分を
オブラートでくるむかのように
ユーモアの衣をまとわせているのです。

ゴーゴリ1836年発表、
芥川1916年発表の、
日露両巨人の同名2作品、
並べてみると面白さが際立ちます。

(2019.8.31)

PrawnyによるPixabayからの画像

【青空文庫】
「鼻」(芥川龍之介)

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